降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

心の更新

個人的には、子どもの学びよりも大人になってから、年をとってからの学びに関心がある。


科学は進歩し、世界は発展するかもしれないけれど、一人が生まれて200年ぐらいの間には知り合いも含めて全部死んでしまうのだろうから、僕個人はその200年ぐらいで実際のところの一回一回の完結で、終了なのだと感じる。そしてなぜ切れているものに概念上の連続性をもたせ、強い価値をもたせようとするのかと思う。

 

その連続性とはあらゆる人というよりは、実のところは強いものにとって都合のいい考え方ではないのだろうか。成長や発達に憧れや高揚が引き起こされるのはわかるけれど、そのとき置いてけぼりにされる人たちがいる。意味というのは、明日からみた今の有用性なのだから、明日のための有用性を個々人が問われる。

 

生まれたときから動けない人もいる。障害があって子どものまま老人になる人もいる。でも倫理的にそういう人たちを救わなければならないから共に生きるのではない。
人間の心は有用性というものに疎外されてしまう。自分を含めて全てを有用性でみてしまう。しかし有用性のなかでは、心は固まり、停滞して、更新されていかない。

 

生後に備わった心というのは、生きたものじゃなくてプログラムなのだと思う。それ自体としては自律して循環しておらず、止まっている。それらは意識してリニューアルしてあげる必要がある。文化的に更新してあげる必要がある。

 

有用性で人をとらえることを断固として否定し、有用性を人の心に介入させない仕組み、相殺する世界観が心の更新のために必要なのだ。意味があるから生きているのではない。そこに戻るときに、人の心に更新される力が生まれる。古いものが新しいものととりかわっていく。

 

古いものがたまっている大人のほうが学びは必要だと思う。その結果として子どもにもいい影響がいくだろう。その順番は認めたくないんだろうか。自分がやりたくないからこそ子どもに学べとかいうのもかもしれないけど、学びとは既にある詰まりを取り去るためにあるもので、いやな学びというのは、世間の認識はなんであれ、そもそも学びですらないと思う。

 

学びとはこういうものだとか、研究とはこういうものだとか、誰かが決めて、多くの人がそれを自分のものだと考えることをあらかじめ奪っている。多くの人は自分の仕事以外では「消費者」とかでいいのかなと思う。自分を自分で更新する力を不活性にして気持ち悪くなっていくのをやめるための文化のほうをそだてていきたい。