降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

きくということ 傾聴ではなく

大学で臨床心理の学科に入ったので、きく(聞く・聴く)ということの重要性は繰り返しきいてきた。カウンセリングの場面や極度に追い詰められた状況において傾聴するということは重要なのだと思う。だが、職業とか役割をとったところ、日々の場で「きく」ということについてはどんな位置づけが適当だろうかと考える。

 


日々の場では、まず話すだけの人、きくだけの人というような役割はない。きくことがいいことだから、傾聴がいいからと聴くだけに徹するとどうなるだろうか。僕であればしんどくなる。我慢してきくとか別にしたくない。相手もどうだろうか。自分の思いをまとめてしゃべりたいわけでもなくて相手の反応や考えをきいたりするなかで、自分の感じていることを確かめたいのなら、聴くに徹されるとむしろ調子が狂ってやりにくいかもしれない。

 

ただ、日々の場では別の用事に向かう途中に話したりする場も多い。話しを大事にすることにそんなに持っているものが割けないかもしれないので、一応は何がしかの話す場を設けるときの「きく」を考えることにする。

 

このとき、きくという言葉が、どちらか片一方の行為としてしか表現されないのに僕は違和感がある。他に言い方がないから仕方がないかもしれないが、僕がフィットするのはきくという、受ける動作をイメージさせる言葉よりも誰かと誰かの間に通路を開くという感覚だ。

 

その通路はどのようなものだろうか。
先日の対話の時間で「人に興味がない」ということに焦点をあてた時間をつくった。「人に興味がない」という言明は一般にネガティブに受けとめられるかもしれない。しかし対話は結論づけることが目的なんじゃなくて、自分や相手のなかに既にあるものの構造やからくりをみていくことに意味がある。「人に興味がない」というのは日常会話では言いにくいが、だからこそ観察の対象として取り出すことに意義がある。「人に興味がない」ということを場に出すこと、そしてお互いがその構造を探究する態度を共有することには、大きな意味がある。

 

何も言われてなくても「人がいるところでこんなことを言ってはいけない」「何かに対してネガティブであってはいけない」などという自分のうちの決めごとが往々にしてあるものだが、一人の言明によって、その自分のうちの決めごとがこの場ではブレイクされる。暗黙の規範が人と人のやりとりや話の内容すら実は規定していると思うのだけれど、その規範が破られることによって実態として、自由が拡大する。その場に出せることが増え、自分を縛る必要が一つ減る。すると自然に今まで出てこなかったような思いや言葉が浮かんでくる。

 


僕はこれを通路を開くことだと感じている。日常の場では制限されている通路の幅を増やす。その通路は目には見えないけれど、何かをおこす実質として存在する。人と人との間にある見えない通路の幅を増やす。通路の幅を増やすためには、相手の話しをきちんと受け取ることも含まれるだろう。

 

「きく」という言葉にとらわれてしまうと自分だけの一方的な状態をイメージしてしまいそうだが、通路を開き、その幅を増やし、その状態を維持するとイメージすればどうだろうか。自分が本当にきけているか、きけていないかを意識しすぎると逆に自分のなかに閉じてしまう。相手が見えなくなる。

 


インプロ指導者の今井純さんのワークを受けた時、相手の表情に影響受けるというワークをした。ペアになり、相手の表情に影響受け、すると自分の表情が変わるので、相手がそれに影響を受ける、ということを繰り返す。実際は、影響を受けることは「する」ことではないので、ここでやっていることは状態をセッティングするということなのだと思う。影響を受ける状態とは相手とつながっている状態であり、通路が開かれている状態。自分の思いでいっぱいになり閉じていると、影響はこない。影響を受けるという状態を手がかりにして、自分に対してどういうセッティングをすればいいのかを探っていくというのが趣旨なんだと思う。

 


ともあれ、そう考えると通路はあらかじめ存在するわけだ。とすれば、自分がその状態をセッティングできるかどうかが次の問題になる。強く、「聴くに徹する」をやっていたらこの通路は開いているだろうか。影響を受けやすい状態とは、つながりながらかつ何かを自分に強制しようとしていない状態でもあるのではないだろうか。

 


きくことを追求していくと、「きく」という言葉にとらわれすぎないことも大事になってきそうだ。問題は状態のほうだ。お互いの間の通路をどのような状態に近づけ、維持するのか。その状態への意識、感覚をお互いに育てることが対話の場が成り立つための一つの鍵になってくるのではないかと思う。