降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

即興とクリシュナムルティ

即興をやっている人の感覚を聞いているとクリシュナムルティの言っていることと近いように感じる。

 

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【ロクディムりょーちんの「僕が即興芝居で、こだわること。大事にしていること。」#1】
即興をやっていて、即興のトレーニングをやってきて良かったと思ってること。

『主観性を持ちながら、客観性を持つことができること』
例えば、日常で負の感情が起きた時、「それが起きたことがいけない、ダメだ」と無しにしたり、否定してしまうのではなく、
起きた状況を享受しながら、
「ああ、今、怒りの感情が起きているのだな」「悲しいのだな」と、それを客観的に眺めることができる。

俯瞰的に自分のことを眺めるから、その感情はいつしかふっと消えていってしまう。
自分に起きていること、起きたことはきちんと認める。

そして、その物にただ流されるのではなく、客観的にどれをここではチョイスした方が良いか(シーンだったら、どれが興味深いことなのか。今、大事なこと。ポイントなのか)と状況を把握する。
今、ここにいながらも、自分や相手やこの場を把握することができる。

即興芝居をパフォーマンスしている時、この場できちんと相手とやり取りをしつつも、「今まで何をしていたのだろう」「この場のポイントはなんだろう」と頭を巡らせています(表現が適切かわかりませんが。頭のある部分を使ってます)。

どちらかだけになってしまったら、何が起きているのか発見することはできないし、頭でただ思考したものを提示するだけになってしまいます。

なので、僕がアシスタントを努める、今井純さんも言っていますが、
「二人の自分を持つこと」。
それは、主観的であり、客観的である自分。
(もしかしたら、まだ他の自分がいるかもしれませんが・・・。言葉で説明できそうなら、伝えますね)
そうできることが、即興のトレーニングをしてきて身についてきていることの一つです。
このことはまだ書き足りないので、また追記しますね。
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https://www.facebook.com/ryochin.ryochin.6dim

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気づきとは、何かに関わりあうことではありません。気づきとは、外と内の両方の観察であり、そのなかに方向はありません。あなたは気づきますが、それによって、対象を奮い立たせたり、増大させることはありません。気づきは、対象を選び、一定の結果を生じさせるために分析する、意志の行為ではありません。葛藤といった特定の対象に、意識的に気づきの焦点をあわせるとき、それは集中という意志の行為なのです。

あなたが集中するときーーすなわち、読書であれ自分の見つめることであれ、あなたが選択した領域のなかにあなたのエネルギーと思考を注ぎこむときーーそのとき、この排除によってあなたが集中しているものは強められ、増大させられるのです。ですから、ここで私たちは気づきの性質を理解しなければなりません。「気づき」という言葉を使うとき、私たちが話し合っている内容についての理解が必要です。さて、あなたはある特定のものに気づくか、または、全体の一部分としてその特定のものに気づくかのどちらかです。特定のものそれ自体にはほとんど意味がありませんが、全体を見るとき、その特定のものは全体との関係をもちます。この関係のなかにだけ、その特定のもののもつ正しい意味があります。それは最重要になったり、誇張されたりすることがありません。

ですから、本当の問いは「私たちは生の全体の過程を見ているだろうか、それとも、ある特定のものに集中するために、生の全領域を見逃しているのだろうか」です。全領域に気づくというのは、特定のものを見、同時にそれと全体との関係を理解することです。もしあなたが怒っていて、その怒りを終わらせることに関心をもつなら、あなたは注意の焦点を怒りにあわせるので、全体をとり逃すことになり、怒りは強められるのです。しかし、怒りは全体と相互関係にあります。ですから、私たちがある特定のものを全体から切り離すとき、その特定のものがそれ自身の問題を引き起こすのです。
J・クリシュナムルティ 『自己の変容』

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