降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

3/21 オレベステン案内と自給的場づくりについて

陸奥賢さん考案のオレベステン!という極私的ベストテン発表会をやります。


オレベステン! 目が離せないゆるキャラ ベストテン!

 

個人的には疲れない活動とは何かに関心があります。

 

よっこらせとやや大きめのイベントをして、色々そこでおきたり、社会的意義があるのはそれはそれでよいのだけれど、そのかわり大きめの疲れもあってしばらくは反動で虚脱状態になったり、意義が優先になってしまって自分が食傷気味になる。またエネルギーだけでなく、大きめのイベントやるなら場の運営やら何やら色々能力もいる。

 

だったら身の丈規模でやったらどうか。これは自分の必要以上に作らない自給的な考えです。農業はつらいとか言われるのに、街にはそこに植えてもいいのか、置いてもいいのかと思うほど、いたるところにプランターがあって植物が植わっているのは自分の必要の分だけやるならそれによって獲得するエネルギーのほうが多いということだと思います。

 

多くの人を一斉に動かしたり、一斉に学ばせるという仕組みはそれはそれであったらいいけれど、質の高い学びの場というのは、繊細な場が必要です。質疑応答は後で一斉にとかじゃなくて、1人1人がその瞬間瞬間に心ゆくあり方でいることが重要になる。

 

自給と農業の関係は、イベントや催しにもあてはまると思います。お金を得るために規模を大きくするよりも自分のために身の丈規模でやったらいいと思っています。

 

畑を初めて始める人は、農業をやると思っていて、様々な越えるべきハードルを想定して緊張しているのですが、自給になじんでいくと自分のやり方で進めていいことに気づき、自由になっていきます。ああしなければいけない、こうしなければいけないというところから、ああもできる、こうもできるになっていく。省労力、省能力でやっていける。

 

人に合わせたやり方でいるときや、役割で何かをやるとき、自分としてそのことを体験していません。体験が体験になっていない。体験が体のなかに入ってきて、古いものと新しいものが入れ替わり循環するその働きが弱まります。

 

自給は、収穫物や収量だけが目的ではなく、そこにいたる過程全体を自分のものとしてカスタマイズし楽しむものです。体験をやらなければいけない「仕事」でなくすることで、自分の潜在的な野生の力が活性化されてきます。主体性のある本来の状態、狩りするモードになっていく。この状態のとき、少ない能力も最大限に活性化していく。あることが苦手でもそれを補う知恵がわいてくる。

 

持続可能性とは、100のエネルギー投入して100のエネルギーを回収することを繰り返すことではなくて、100のエネルギーを入れたら150とか200のエネルギーを得ることだと思います。余計に得れるから続く。その時戦略的であること、現実的であることは欠かせません。いいことだかやるとか、言われたからやるとか、やるべきことだからやるとかいうのは投げやりなのだということがわかってきます。エネルギーの運営主体としての責任を放棄しています。

 

あと、このエネルギー獲得は、更新作用の結果としておこっているということがあります。古いものが取り去られるために新しくなる。「年配になってもこんなに学ぶ意欲があるからすごい」は見方が逆で、常に更新されているから心の新鮮さとエネルギーがある。自分の内側から生まれてくる更新作用のノックに応じているのです。

 

自給をしていると、実は収穫物よりむしろこの狩りするモードを維持することのほうが、重要だということがわかってきます。ともあれ、狩りするモードになるとき、学びがおきます。体のほうの求めが先にあり、それに応じる。それが学びのあり方。

 

とりあえずしなければいけないアルバイトをしていても、作業は覚えていくけれど、それは学びではない。それは場所が学校でもどこでも同じだと思います。学びは自分の体の求め、向こうからのノックに応えることによってしか展開しない。そこに謙虚になる必要がある。

 

自分に必要な体験を自分に与えることによって、人は自分の内側を更新していきます。それは自分ということをこえた生きた働きが動いているからです。

 

エネルギーと能力の高い人だけが場づくりをしたらいいのではなく、どのような人も自分自身のために場をつくることが明らかに必要だと思います。身の丈規模で、自分の必要のための場づくり。やったことがなくても、ほんの数人集めて場を整え、やりたいことをやる。それで十分なのです。

 

ある場所でおこるコミュニケーションは、場の物理的構造とその場に重なる文脈に完全に依存しています。「コミュニケーション力」とかファシリテーションの力を「アップ」させてどうにかなる問題でなくて、既にある場の力にどう乗れるか、場の力にどう引き出してもらうかなど、読むことが重要になります。それは自分の内の感覚ですが、体の求めがあれば、自分がやるのに必要最低限のものは何かぐらいは確かめていけます。

 

洗練された催しである必要はない。誰もがただ自給的に必要最小限の場づくりをしていくことが、社会の質的変化にとって重要だと思っています。

 

不思議なことに、自分に必要な体験を自分に与えるときにおこるプロセスは、周りにシェアするものに足るものを派生させます。プロセスがその場で本当におこっているとき、それは周りの人にも何かをおこしていきます。

 

今回のオレベステン考案者の陸奥賢さんは、311以後にまわしよみ新聞という意見や価値観の違いがある人が共に素の人として出会い遊べる仕組みなども考案されています。

 

自分とその周りのために小さな場づくり、ファシリテーション力や「リーダー」の能力に依存しない自給的場づくりが様々なかたちで立ち上がっていけばいいと思います。