降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

自由とコミュニティ機能

自分が生きていくなかで必要なものを誰かに依存すれば、その分だけ自由も奪われる。その誰かの実態や理屈に否が応でも影響され、従わなければならないからだ。


資本主義社会が提供する多様性といっても、結局お金がある程度以上必要で、そのお金を得る手法や理屈が決まっているなら生き方や個人としてのあり方は実質的に随分と制限される。就職できなかったら自殺がおこるぐらい、社会に人を受けとめる多様性がないとも考えられるだろう。


畑や田んぼなどをすることによって、食べ物を自給することができ、同様に建築や糸紡ぎなどできたら衣食住の大部分が自給できることになる。けれども「自給がいい」のではなくて、自分に必要な分だけの自由をきかせるための自給だと思うから何から何までやる必要はない。僕の動機は、自分が生きていくために必要な自由を自分に与えることがまず第一にある。


先にも書いたけれども、今の社会で、自由を制限する「コミュニティ」なら僕は別にそこにいたくない。属さずに1人暮らしで生きればいい。1人で生きるというのは、突き詰めればありえない状態だけれど、一応の社会の仕組みが既にあるわけだから、1人暮らしでも生きていける。


外枠をもった「コミュニティ」がなくても、自分ができないことを代わりにしてくれる「コミュニティ機能」があれば1人暮らしでも生きていける。自由に関わってくるのは、「コミュニティ」ではなく、「コミュニティ機能」のほうだ。


何かのマイノリティであっても、尊厳が守られ、人らしく生きられるために必要なのはコミュニティ機能であって、コミュニティが即座に必要な心理的環境を提供するわけではない。


コミュニティは、あくまでコミュニティ機能を発揮するための人工漁礁であって、魚やら海藻やらが自律的な生態系をつくりだすにあたっては 、人工漁礁自体は別に沈船でもコンクリートでもいいわけだ。


コミュニティ機能のほうを無視して、ともあれコミュニティがあればいいのだと作ることは本末転倒な結果を生むだろう。


必要な自由を生み出すためのコミュニティ機能というところを主に考えるならば、完結した1つのコミュニティのなかに、はたして必要十分なコミュニティ機能が盛り込めるだろうかという疑問が浮かぶ。


1つ1つのコミュニティは、それぞれの特長を持つがゆえに限定もされる。ある人には合っても別な必要をもつある人には合わないのではないか。限界ある一個の仕組みに何もかも盛り込めると考えることには無理がないだろうか。


なので1つ1つのコミュニティは、それぞれの自由を作りだしていて、環境全体のコミュニティ機能を生んでいると考えてみる。たとえばコミュニティが1つ1つの商店であれば、商店街と商店街の存在が作り出す生活圏が生まれると考えてみる。


自由というのは、どちらかというと間にあるもの、境界にあるもののような気がする。これと決まっているところでは、決まったことしか生まれてこない。個が主体になるのは、決まった「自由」が与えられる環境にいるときではなく、境界的な性質を持つ場で自分がその環境を使って必要なものを生み出すときではないだろうか。


そう考えると、コミュニティ機能は、個々として自律しているコミュニティの間や周りを含めてこそ必要な分が補われると思う。十分なコミュニティ機能は単に与えられるものとして存在するのではなく、個々が間や境界を利用し、主体化していく活動によって作りだされると考えたほうがしっくりくる。


必要な自由を自分に与えることがコミュニティ機能の核だと考えるとき、人工漁礁としての個々のコミュニティは、その周辺に個々人が主体化するために利用できる境界を作り出す。


僕が自由だとイメージする状態は、個々のコミュニティを自由に行き来できる状態だ。住むこともできるし、移動することもできる。一個がつぶれても、そこにいたものはただ別のところに移動する。この場所で生きなければいけないということがない状態。


カウチサーフィンという無料の宿を提供しあう国際的なネットワークがあるときく。そのように、個々の自立したコミュニティが関係性を成熟させ、お互いのものをシェアしあい、生存と尊厳を保証しあえるようになったとき、国という限定も何も関係ないのではないか。そのとき1つの「国」に期待したり絶望する必要もなく、何を改革したり破壊する必要もなく、実質的な自由と実体が生まれていないだろうか。