降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「到達」の設定について

何かになることや、蓄積や成熟を到達するべきところと考えることについては、個人的には疑問を持っている。

今が本来ではないととらえ、ある状態が来た時から本来がはじまると考える。それは否定を抱え込んでいる。報われるか報われないか、今到達に向かって進展しているのかそうでないのかに強迫される。

 

無自覚かもしれないが、これは今感じていることを後回しにしてしまう抑圧の機制にもなる。「いずれそうなるぞ」から「やっていこう」にずれ、今はおいておく理由にする。自我の自動的機能はもともと逸らすことに力点があるので、かかっている圧力がやり過ごされればそれでよいのだ。将来の素晴らしい状態のイメージと交換に今の落ち着きなさや報われなさをなだめるのだが、交換の代償はそのようになっていけない強迫の抱え込みだ。その強迫の抱え込み自体が生を貧しいものにして、望む状態から遠ざかる影響をおよぼす。

 

変化や回復についてずっと考えてきたけれども、変化や回復自体を目的にすると変化することが停滞する。微妙なところの話しだけれど、目的をもつと目的によっていい状態が干渉を受けてしまう。だから、それでももし狙うのならば、気にしないでいるのに、必要なことは自然と体験されていくというところにもっていく工夫がいるだろうと思う。

 

いかに強迫を抱えこまないか。意識の干渉からくる無駄な圧迫を派生させないか。ある自由を存分に体験するには、その自由にこだわらないでいい状態が必要だ。