降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

シセル妃のエピソード

「何が現実で 何がそうでないかなど 誰が言うことができるだろうか? Yet who shall say what is real and what is not?」

ジョン・フォード「わが谷は緑なりき)」

 

 

ドラクエ8に、王妃を亡くし悲しみに暮れ、いつまでも喪に服し続ける王を助けるエピソードがある。主人公たちは、魔法の道具を使い、王の記憶のなかの王妃の姿や声をその場に呼び出す。ホログラフィーのように映像と音声を与えられた記憶が宮廷で再現されていく。

 


[1080p][DQ8] ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君 - シセル王妃の思い出 / Dragon Quest VIII

 

再現される記憶のなかで王は王妃に尋ねた。君はなぜそんなに強いのかと。王妃は自分には母親がいるからだと答える。しかし幼い頃に王女は母親を亡くしていた。王妃の言うことに疑問をもった王がそのことを指摘すると、王妃はこういった。

 

「わたしも 本当は 弱虫で だめな子だったの。いつもお母さまに はげまされてた。お母さまが亡くなって悲しくて さみしくて・・ でもこう考えたの。
わたしが 弱虫に戻ったら お母さまは ほんとうに いなくなってしまう。お母さまが 最初から いなかったのと 同じことになってしまうわ・・・って。はげまされた 言葉 お母さまが 教えてくれたこと その示す通りに がんばろうって。・・・そうすれば わたしの中に お母さまはいつまでも 生きてるの。ずっと。」

 

母親が目の前にいるときの自分の状態でいるならば、母親はいる。自分や母親という個と個、孤立し隔絶したものがあるのではなくて、気持ちの流れ方やそこからもたらされる感覚が実態、現実として先にあり、自分とか母親とか、母親が生きているとか亡くなったとかいう概念操作のほうがむしろ虚なのかもしれない。「心的現実」といわゆる「現実」が逆転している。

 

これは空想的なごまかしであるとも考えられるだろうし、それとも人間にとっての現実とは何かを徹底的に究明した先の、むしろドライですらある実際に即したものであるとも考えられるだろう。

 

母親との関わりによってある感覚やリアリティがよびおこされているのなら、その感覚やリアリティは脳の中にすでにあったということ。母親と自分というキャスティングによってよびおこされなければ、見つけることもたどり着くこともできなかったかもしれないが、一度よびおこされたなら、逆にその状態を自分が設定することができる。その状態、設定をもとに生きていくとき、「現実」が創造されていく。