降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「私は生きる」という転倒

恵文社の森のお話しの2日後に三浦豊くん夫妻と話す機会をもらった。

森のはなし@京都

「森の案内人」三浦豊 森ツアーガイドと場づくり

森の話しのなかでは、森の価値を論ずるときにどう活用できるかという文脈に終始することの残念さについて言及があった。


確かに活用ということがなければ森を守ることも難しいかもしれないが、人にとっての有用性で語ってしまうときに何かが違ってしまう。その感覚に信頼感を持った。

有用性で世界を埋め尽くすときに、人もまた生きづらくなる。人が世界で一番偉くて他のものは活用されるためにあるとしたとき、それは人の社会のなかにも同じように持ちこまれ、人は利用価値で判断される商品になる。

しかし利用価値のなかでしか評価されない環境では、人の心は回復していくことができない。心は意味によってその本来の自由さや展開していく力を奪われる。


心の回復とは、意味の世界からの回復と言えるだろう。人間は、自分が作り出した世界によって自ら疎外されるという転倒を生きている。


意味の世界に生きているのに、さらに意味から抜けていくことで心はようやく解放される。元に戻る。


それは意味の世界にありながら、それを仮と認識して、心は無意味の世界にあるという二重性の獲得だと思う。

僕は、いきなりそこに行けないので、流通しているおかしな言葉、おかしな観念を破綻させ、ニュートラルにするということをずっとしてきた。

言葉に入っている前提は見えにくい。しかしその言葉を受け入れた瞬間にその前提に支配されてしまう。あっという間の転倒だ。しかしそれがなぜかはなかなかわからない。


「私」と「生きる」を組み合わせて、「私は生きる」という言葉を作ってみる。途端に転倒している。私は生きなければいけないのか、私が生きるのか、という疲弊的思考に自動的につながっている。


私が生きるのではない。死にきれないのだ。死にきれない力の動きがある。寒ければ暖を求め、飢え、傷つけば苦しむ。自意識はその苦しみに耐えきれない。だから結果として「生きる」。その死にきれなさが生の主体だ。自意識としての私ではない。


その死にきれなさの有無を言わさぬ力、圧倒的な力が主体なのに、そこに翻弄されるがままのあわれな自意識を主体と前提して考えて何かできるわけがない。疲弊するのは当たり前。

スタートから逆立ちして生きていこうとするようなものだと思う。そのままで既に疲れてしまう。終わっている。


「言われてみれば確かに「生きる」って受動的やな」と豊くんから反応をもらう。そう、受動的。受動的であることはそれ自体が疲弊的。生きることは疲れていくことではない。しゃべればこの感覚が通じるのが嬉しい。


主体は、自意識の選択など関係なく存在し、受動的になることなどない。受動的になれるのなら、それはそもそも主体ではない。


言葉がもたらす転倒で人はどれだけ惨めになり、弱くなり、生きることを奪われてしまうことだろう。たとえ今は騙されていても、そのままにはさせない。抜け出ていく。それが自分の動機だ。