降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

何でもないもの

看取りや老いについては年をとったら考えたらいいというわけにはいかないのは、それが人間の尊厳を何と考え、そしてそれをどこまで守りきることができるのかという問いそのものだからだと思う。

 


日々、目覚ましい発達を遂げていく子どもたちがいて、その一方には病気や障害、事故、戦争、その他あらゆる理由によって、そうならない子どもたちがいる。何の理由もなく苦しみ死んでいくものがいる。成長するものを讃えるのは簡単だけれど、この自然のなかではどのような力を持っていても、次の瞬間みじめさのどん底に突き落とされることを存在として避けることはできない。

 

他のどんな年代より人間としての本質と向き合わざるを得ないのが、持っていたものを失っていく時期だと思う。「借りていた」と表現されるまで、自意識は「持っていたもの」と同一化しきっている。その同一化をやめていくことは、人として、生きものとしての根源に戻っていくことではないだろうか。老いは、生きるという統合性が解体しはじめたことによって現れる、生きもののむきだしの本質と対峙する時期だ。

 

刺繍で作られた絵を構成する一本一本の糸がほどけていくとき、そのどの糸も生そのものではなく、自分そのものでもない。人間とは何か。生きものとは何か。「何でもない」。突き詰めればそこにしかたどりつかない。

 

存在するもののどうしようもないまでの脆さ。それでもゆだねることしかできないかなしさ、はかなさへの共感。それが人として持ち得る一番深い優しさなのではないだろうか。