降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

居場所 関係性という実態

「居場所」を自分から名乗る場所は既に居にくいという矛盾があるのは、個々のありよう、求められる姿を場のほうから勝手に規定されるように感じるためだ。自分でいられる場所とは、放っておくといつも自分に浸入し、干渉してくる意味への強迫が打ち消され、相殺されることによって成り立つものだと思う。


そのように考えていると、居場所があるということ自体がとても面白く感じられる。周りや世界とある関係性のなかにいるとき、自分が自分でいられる。その関係性のなかにいないとき、自分が自分でない。それなら、関係性がいつでも先にあり、単独で成り立つ「自分」などそもそもいないということではないか。なのに、考えるときは、他と分けられた自分というものを仮定して、そこから全てを考えるわけで、それが最初から違う。前提は結論を規定する。単独で成り立つ自分を前提に考えればどこまでいっても、孤立と孤独と行き詰まりから出れない。


自分が自分でいられる関係性とは何か。「自分」などより先に、その関係性の実態を仮定して世界を捉え直していく。


イギリスの小児科医ウィニコットは、1人の赤ん坊というものはおらず、赤ん坊は常に誰か、母親の一部分であるという言葉を残している。


There is
no such thing as a baby. A baby is always a part of someone, the mother.


これは、赤ん坊だけの話しにとどまらないと思う。母親を環境と言い換えるなら、1人の人というようなものはおらず、1人の人はいつでも環境(関係性)の一部である。


ここからはじめられないだろうか。他から分け隔てられ、囲い込んだ架空の「自分」を仮定して自ら行き詰まり苦しむことをやめて。


「自分」に肯定的な意味を詰め込もうとする。しかし、意味は相対的なもの。自分が高まるためには低いものの存在が必要だ。肯定的な意味を他者から奪い、「自分」の陣地に集める果てしない競争は、恐怖に支配された状態のもとにある。恐怖は心の時間を止め、他者との心理的つながりを絶ち、心を疲弊させていく。


関係性というものが先にあり、そのなかに「自分」という見かけ上の事象がおこっているということが見えはじめるとき、「この自分」がどうか、「この自分」がどうあるべきかという余計な苦しみ、停滞はだんだんと小さくなっていくと思う。