降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自意識は自分を変えることができるか

少し前に回復について書いた。インタビューさせてもらって、お話しを聞かせてもらいながら、自分なりの確かめの一つを済ませることができた。


自分というものの、今この状態は、自意識としての自分が変えなければいけないのか。自意識が変えるものなのか。考え方によっては、イエスともノーともいえる。しかしそんなどっちでもいい答えは求めていなかった。たどり着いた答えはノーだ。


なぜなら変えるのではなく、変わるのだから。直接の操作によって変わるのではない。自意識でやろうとする働きかけは、そのやろうとする先のことが繊細であればあるほどうまくいかない。自意識の介在度が高いほど結果的なパフォーマンスはさがる。自意識によるコントロールとは、国に戒厳令をしいて、やろうとすること以外の全てを停止させるようなことだ。一方、繊細さを要求することとは、自意識の強制コントロール以外の部分の連動によってなされる協働作業だ。


自意識とは結局何なのか。僕は自意識の本質は、危機反応として現れた強制停止の機能であると思う。自意識は常に危機感と停止に関わっている。どんなものでも止められるぐらい直接的な危機、恐怖を体に感じさせる体験をもとにして自意識はコントロール権、支配権を生体から奪い盗った。これが人間が自由な行動ができる根拠だと思う。これは転用であって無理やりなことだから、自由が豊かさをもたらしても代償も大きい。生体としての自己疎外を代償として自由は成り立っている。


よって、何かがうまくなりたいとか、できるようになりたいとか、変わりたいとかの自意識の強い働きかけは、ある程度いったところで、状態をとどめて失敗する。自意識を使えば使うほど、やらねばやらねばと思うほど鈍くなり、疲弊は増加する。閉じていく。価値を信じ込み、強迫的に求めればむしろ遠ざかる。ある行為のうちの自意識の介在度をいかに低めるかこそまず問われるべき問いなのだと思う。


自意識は何でもかんでも自分だと思いたがるが、湧き上がる興味関心は、自意識のものではない。独立している。一方観念から来る恐怖は自意識のものだ。


変化がすすむために必要なのは、適度な環境にい続けること。いい状態を維持することだ。そして自意識が過度の責任を背負って危機意識をエスカレートさせない工夫がそれに加わる。すると内在化された恐怖を取り除こうとする生体の働きが出でくる。なぜならそこが疲弊をもたらしているからだ。


自然と人にゆだねられる環境をいかにつくるか、その調整には自意識のコントロールを使う。というか、もちろんどんなときも自意識はちょっとは介在しているのだが、ともあれ、つくったあとはゆだねる。


自意識は危機反応なのだから、結果として必要最低限に抑えられることによってうまくいく。変わりたい変わりたいと思う気持ちが主でなく、脇にいってしまうようなときこそ、変化はおこる。自意識を強迫的に使うことには意味がない。あるべき(それは結局恐怖だ。)姿を心に組み込んでしまうことが結局逆行になる。


恐怖が弱まっていく状態で、内から送られてくるシグナルに気づく。そしてそれに添う。それが満足感と解放につながっている。ただそれだけだ。その場その場だけがある。


回復についてのFBの投稿のシェアのコメントを読ませてもらっていると、思った以上に様々に通じたように感じた。自分なりには納得して、もうここでああだこうだと考える必要はなくなった。ああすっきりしたという感覚。掃除の感覚。気持ちの通りがよくなる。そして人に「通じた」ということも,通るという漢字を使うけれど、何かが単にAからBへ届いたというだけでなく、何かが通るようになったという感覚があった。


佐野洋子の『百万回生きたねこ』を思い出した。物語のなかで、とらねこは自分の子どもたちをみて、「ああ、お前たちも立派なのらねこになったなあ」といっていた。彼の気持ちももしかしたら「通った」という感覚ではないのかなと思った。


彼の本質は消えない。そのことが確認された。彼が彼であるために彼は死に切れなかった。しかし今、彼は自分という個体をこえた自分の本質が何も変わらず続いていることを確認した。彼の彼らしさは、個体としての彼に属するものではなく、彼をこえるものだった。死に切れないものはもういない。とむらいは遂行され、彼は時間を取り戻した。

 

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

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