降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

取り去るものとしての「学び」

少し前に話しをしたときに、学びという言葉が出た。学びに限らず、政治なり、活動なりについても同様に思うけれど、よく検討するなら、自分はそれをやってないとか関わってないということがそもそもあり得ない。


やってないとか、関わっていないとかいうのは、日々生きていて、さらにその上に意識して付け加えるものとしてそれらのことを認識しているということなのだけれど、そう考えることで滞る。あるいはあえてそう考えることで、それ以上の検討をしなくてよくなるからやっているということもあるだろう。今は今のバランスの均衡があって、それを崩すものは困るのだ。崩れると何かしなくてはいけなくなるから。


それはさておき、自分や自意識によってゼロから力を出すと考えるのではなく、水道に管をつなげばそのつないだ先からも水が出てくるように考えるのが実際に即していると思う。圧は既にある。ないと仮定すればその瞬間終わっている。その前提のもとでどのように組み立て考えたところで前提が違えばあとは全て間違いにしかならないので、進めることができない。


圧は既にある。そして行き場を求めている。溢れた水は自身で水路をつくるから、通路は二次的に現れるとも考えられるし、もともとの勾配があるのだから通路はもともと決まっていたとも考えられるかもしれない。


さて学びのための動機はそのようであるとして、そもそも学びとはどういうものなのかを考えてみる。なぜ学びの必要があるのだろうか。


たとえば未来を仮定しないでいい生きものは、同じことの繰り返しをしていればいい。生まれて死ぬまでのサイクルをそのまま延々と繰り返す。


僕はどんどん完成して有能になっていくような進化(日本語が「進化」なだけでもともとは「展開」だったのだっけ?)というようなものは実際にはないだろうと思っている。それより植物群が環境に最も適応した状態でその変化の様相を止める、極相という考え方のほうがフィットする。


もともと不安定で変化するものが、(概して)安定的な環境のもとで極相化していく。しかし生きものの生態系がつくる環境などもあるし、環境は安定的ながらも常にズレがある。そのズレに対し、また最適な極相化に向かう。有能になろうとする動機などはなくて、既にあるバランスの崩れが飽和・安定化に向かう過程だけがあると思う。川の下流の石が小さく丸いのは、川の流れにより適応するためでもあるべき姿に向かう動機があった結果でもない。そこには意味などなく、結果は環境と力の流れの反映だ。


未来を仮定しない世界とは、意味のない世界であり、ただ環境ともともとの力の動きの相互作用による反映がおこるだけの世界だ。意識して学ぶ必要のあることなどない。既に組み込まれているものが刺激に対して決まった反応をするだけでいい。


ところが、未来を仮定しだした世界では、生きることのサイクルは、同じことの繰り返しでは済まなくなる。この世界は情報を内在化させ、固定化して利用するという転用を基盤とする。情報とそれへの反応を構造化し、とどめ、それに従う。このことによって、明日は先取りされ、生存に「有効」な手立てが生みだされる。


過去の固定化によって人は世界をつくり明日を生きるという、はじめから矛盾するようなことを無理やり成り立たせて人は社会をつくっている。


しかしここで必然的におこる弊害がある。過去の固定化のために、現に今おこっていることに対応できなくなり、不適応をおこすことだ。これが過去の固定化によって未来も生きていくという転用を選択した宿命だ。


そこで行わなければならないことは、その構造化された内的世界の更新ということになるだろう。


自意識としての人は過去の固定化によってしか世界への関わり方を定位できない。だから生きている間にも随時、固定化された情報を揺り動かし、取り去り、上書きする必要がある。これが学びだと思う。この過去を固定化して生きる世界のなかでは、この更新が必要になってくるのだと思う。


体は自律的に新陳代謝する。しかし、人為で構造化した内的世界は、放っておいても新陳代謝しない。人為的な新陳代謝がいる。それが学びだ。


また圧に話しが戻るが、学びを遂行するときの源になる圧は、過去の固定化の結果として古く滞ったことへの苦しみだと思う。圧は、気の流れが以前のように循環する次なる通路を探している。学びは、この苦しみを取り去るところに動機を持っている。ひるがえってみれば、今ある苦労の上になお「学ばなければいけない」のではなくて、今既にある滞りの苦しみを緩和するという自然な流れや求めのなかに学びはある。


生きていたということは、そのまま学びの結果だといえるのではないだろうか。
一般に学習とは逆のものとみなされる、「忘れる」ということを更新と考えることもできる。


今生きていること、それが即ち学びの結果としてある。学びから離れることなど誰も一度もできないのではないだろうか。過去の堆積に生が圧倒されるのを防ぎ、取り除いていくことが学びなのだから。