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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

花は咲かなければいけないのか 「とむらい」をめぐる対話の続き

とむらい」をめぐる対話を希望してくれた方々とそれぞれに続けています。この「とむらい」「とむらうように」は、一つにはいわゆる「自己実現」を違う視点から解釈しなおしたものです。

 


自己は実現しなければいけないのか? 花は咲かなければいけないのか? 夢はかなえなければ意味がないのか? しかしそのようにあるべきことを設定することで、人は実のところかえってその場にとどめられます。変化、回復はむしろ埋め込まれた価値の強迫から自由になったときにおこるというのが、僕の確かめてきたことでした。よって変化しようという目的さえ、変化のためには邪魔であるといえるでしょう。

 

生きものにとって死は老後にのみあるものではなく、子どもであっても訪れます。それが常態。デフォルトです。そのとき、時間をかけて何かを達成することは、むしろ常態から外れたことでしょう。次の瞬間死ぬかもしれないのに、あからさまには言わなくても結局何かを達成しない生には達成した生と比べて価値が少ないとするのはおかしい。むしろこれは、こうでないと価値がないと人から価値を奪っているのです。

 

しかしたとえそんなことが気にならなくても、生きるならば、状況をそのままに放っていたら苦しくなっていく。だからサバイバルはしていく。サバイバルしていくのは、そうしないとより苦しいからです。苦しさとは、生と向き合わざるを得ない必然です。苦しさが生を方向づける。生まれた幼児があらゆる不快を感知し、表現しないならば,幼児は死んでいくでしょう。違う、これではない。これはおかしい。快はむしろごく一部であり,またその快の大きさも苦しさの裏返しとしてあると思います。生きている限り、人は苦しみに対して、たとえどのように不十分であっても向かい合わざるを得ない。

 

自己実現」したいというような持続的な欲求にみえるものがあるのなら、つまるところそれは生まれたときから感じているような根源的な苦しみを乗り越えたいということに他ならないと思います。つまり「自己実現」はしなければならないのではなくて、すでに今苦しいからそちらのほうに行ってしまう、近づいてしまう、そうしてしまうと考えるのが妥当と思います。

 

自分の生を振り返るなら,繰り返し、同じようなものに接近しようとしている形跡があるでしょう。それは危機とも関わりがあって、ただスムーズにはいきません。しかし自意識がどう判断しようが体が行こうとしていることは決まっている。そこに力が働いているのです。体は自律的にこの苦しみを根本的に乗り越えるありようを探り、試行錯誤しています。

 

生きるとは、死に切れないということです。死に切れないとは苦しいということ。その死に切れない力を使って生きていくことができる。夢を達成しなければいけないのではなく,根源的な苦しみに対してそれを乗り越えようとする体の力が大きいから、その大きい力を使って生きていくことができる、生を展開することができるということです。そしてその根源的な苦しみを自分なりに乗り越えていくことが結局は自分にとっての充実なのです。たどり着くべき場所などないし、待っているものもない。ただこの瞬間瞬間に持っているものを爆発させていくことができる。終わらせていくことができる。それ以上はないし、それで十分なのだと思います。

 

僕は強迫的なものを解釈しなおし、高揚させるものを高揚に使えないようにしていっています。高揚を糧にしようとするなら、身も蓋もない考え方のようですが,この意味のなさが重要であると考えています。意味とは明日からみた今の有用性であり,それは結局役に立たない人と役に立つ人がいれば、後者を取り続けるということです。しかし、そうしたところで世界が生きづらくなるだけで,人は結局どこにもいかない行かないでしょう。今を「発展」の過程ではなく,終わりととらえることで生きることはむしろ戻ってくると思います。意味に支配されることを終わらせるということです。

 

自律的な力があり、それがどこかに動こうとしている。なので対話では特に難しいことを考える必要もなく、話しが生まれてきます。刺激されたものが,この場を使って動いていく。基本的にその動き自体が教えてくれるものをきけばいいのです。