降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自分を除いた周り

一番最初に関心をもった社会問題は環境問題だった。中学か高校でウータンという雑誌をみてPCBの汚染の問題に衝撃を受けた。PCB(ポリ塩化ビフェニル)はモンサント社の代表的商品だということは当時は知らなかった。wikipediaモンサントの項目のなかにこうある。


”同社を有名にした商品の一つはポリ塩化ビフェニルであり、アロクロールの商品名で独占的に製造販売した。日本では、三菱化成(現三菱化学)との合弁子会社であった三菱モンサント化成(現在は三菱樹脂へ統合)がポリ塩化ビフェニル製造メーカーの一つであった。”

 

社会に対する不信や怒りがあり,環境問題はある意味社会を否定し,糾弾するような気持ちをぶつけ、自分を保とうとする機制に都合がよいものだったかもしれない。社会に対する否定、ノーの表明が、人がどうであれ自分は環境にできるだけケアするという思いとつながっていた。

 

ところが、これには問題があって、いつまでやってもどこまでやってもマシになるだけで、どのようにしてもこの国で自分が生きている限り、環境にダメージを与えているのだった。突き詰めれば、よっぽど大勢を巻き込んだ運動でも確立しない限り、自分がいなくなったほうが環境負荷は減るというところに行ってしまう。

 

環境とは不思議な概念だ。自分の周りのことを環境というのだけれど、それは自分を除いた周りのことを指す。自分と「環境」は一体のはずなのに、なぜ自分と自分の周りを別とするのだろう。ここに虚偽がある。この言葉は不注意に受け入れると自己疎外をおこす。そのもとは結局ここにある。自分を除いた周り。なぜ除く? 

 

向かうべき方向はもう決まっている。環境負荷を減らす。それ自体は生き方でも何でもない。自分がどう生きるかが関係ない。環境負荷を減らすということを除いては。結論は自分と関係なく最初から決まっている。環境、エコといわれているものは詰まるところ思想ではなくて「データ」なのだと思う。

 

これは環境、これは農、これは政治、というようにわけ、自分と関係ない「分野」を作って増やしていくこと。これが自己疎外を引き起こすもとだ。現実のありようとずれた虚の概念からはじめてはいけない。現実を細かくみれば「何もやってなくても」「何をやろうとも」自分は環境と一体であって、農的存在でもあって、政治的存在だ。

 

それをないものにすることは,気づいていなくても、生きる主体であることを売り渡していることであり,力は奪われている。既に一体であるという前提のもとにたって初めて、行き詰まりを開くスタートに立てる。そこがニュートラルな場所なのだと思う。