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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

講演とワークショップ<大村はま先生に学ぶ〜学びひたり教えひたろう 優劣の彼方で>

→大村はま

清滝テラでの講演とワークショップ<大村はま先生に学ぶ〜学びひたり教えひたろう 優劣の彼方で>に参加。清滝はもう紅葉がはじまっていた。


大村はまさんから直接教わった刈谷夏子さんが紹介してくれるエピソードは体に浸透してくるように聞けて意識が逸れることがなかった。講演と大村さんの洞察の言葉は、料理されて純粋に美味しいものだけにされた食物のようだった。こういう感覚はあまりない。

 

「子どものことというより、自分の身を振り返って考えたのですが、持っている「力」というのは使い切った時に伸びるもののようです。大してない力でも,ありったけ使うと、また、どこかから湧いてくるのではないか、誰かが哀れに思って賜るのではないかと私は思いますが,使い切らないことには湧いてこないようです。かわいそうになるほど、持っている力をみな使って途方にくれるようにすることが、次の力を得るもとになるようです。」

 

「要旨を取らせるという場合、この文章の要旨は何かを聞くというのではなくて、要旨をとる必要のある、また要旨を取らなければできない作業を考える,というのが大事なのではないかと思います。目標を生で生徒にぶつけないということです。生徒はその作業をいっしょうけんめいにやっていけば自然に目標にかなってしまう、この道からもあの道からも登っていくことができた峰だというふうにやりたい。」

 

 

 

お上品で空疎なスキルを付け加えるのではなく、実質の力とは何か、身になるものとは何かを明確につかんでいて、それを引き出すための環境設定がどこまでも追求されている。

 

公立の学校で教えていたため、どうしても教科書は使わなくてはならなかった。大村さんがそこでやったことは、まず教科書を授業に使うまで読まさせないことだったという。文章との出会い方で体験は変わる。ここまで繊細に環境を調整している。

 

そして教科書を一度に全部読み、そこから「ことば」という言葉が書かれた文章があれば、その前後の文章ごと短冊に書きだす。教科書1冊で短冊の数は100枚にもなったという。短冊ができれば今度は同じ意味で使われているものは重ね、違うと感じられるものは並べるということをする。

 

あちらで使われている「ことば」という言葉とこちらで使われている「ことば」の意味合いは当然違う。それを言語化できなくても同じものと違うものは何となくわかる。そしてそれでもわかりにくいものは、短冊の一番底に戻す。それを繰り返していくうちにどれと近くてどれと違うかということがわかってくる。いつしか同じ意味だと判断されたグループのそれぞれには、生徒によって自然と「名前」がつけられている。分類の仕方は、生徒によって、関心によっても変わる。それをokとする。
伸ばすべきところはどこか、そしてどのように伸ばせられるのかが考え尽くされているこの実践性。

 

浅い次元で学びが終わることをさせない。「蜘蛛の糸」では主人公カンダタは自己中心性のためにみすみす極楽から垂らされた糸を切ってしまう。糸が切れたのは、自分以外の亡者まで糸にすがって登ろうとしているのをカンダタが上から見ていて追い払ったことによる。

 

いかにも「カンダタは愚かだね。」「自分だけ助かろうとするのはいけないね」の次元で終わってしまうような話しだ。

 

その時大村さんはこんな感じのことを言ったという。
「もしカンダタが下を見ることなどないほど、ただひたすら登ることに真摯であったならばカンダタは極楽に行けたのでしょうか?」

 

この言葉で問題は大きく変わる。糸が切れたのは、カンダタが下を気にするほど散漫で自身の運命を切り開くことに不誠実だったからだということになる。つまらない教訓話しは途端に変化し、個々の生徒は生きることに向き合うこととはどういうことなのかという問いのなかに放り込まれる。

 

この瞬間において作者の「本当の」意図などもう関係ない。テキストを信仰でもしているかのように仰ぎ見て従っていく学習などしない。テキストの主題と思われるものでさえ大胆に捨て去り、テキストを「使って」実質の力を養っていく。主と従が容易に逆転し、本末転倒になるこの世界で大村さんの現実感覚は揺るぎない。

 

大村さんにとって、言葉とはこの世界に直に心を通わせていくための媒体なのかなと思った。この世界に心の血管を張り巡らして、血を通していく。生命反応をおこすための酸素を細部に送っていく。