降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

心の動いた痕 「とむらうように」という関わりのかたち

とむらい」をめぐる対話、お声がけいただいた方たちとそれぞれのペースでぼちぼちすすめています。対話させてもらうこと、そしてそこで得たものをまた言葉にしていくことが必要でした。

 


弱いもの、持たざるものであっても持っている根源的な力をどのように自分の生にひきいれることができるのか。疲弊と鬱をもたらす高揚やたきつけを脱した物事への関わり方とは何なのか。

 

「とむらうように」向き合い、「とむらうように」関わり、「とむらうように」つくりだす。その時、人は疲弊していかず、むしろ回復していく。

 

生を、たとえば自らの運動によって自らを充満させ再編していく気の循環の上にあるとみてみます。循環それ自体が回復的で力を与えるものだとするとき、そこにどこかから持ってきた力を加える必要はありません。流れの悪くなった水路に対してそのたびにどこかから水を持ってこようとするのではなく、その水路にある「詰まり」を取り除いていくことで流れは回復する。

 

では心の詰まりとは何なのか。心の詰まりはどのようにできていて、その詰まりを取り除いていくにはどのような関わり方が適切なのか。それが「とむらうように」関わるというかたちになると考えています。

 

憎むのでもなく,無いものにするのでもなく、遠ざけるのでもない。実際のところ、ずっとそのようにしていたからこそ、それは暗く見えないところに押しやられ詰まりとして残らざるをえなかったのです。

 

そこに光をあて、その当然の価値、必然性を知る。それが報われるにふさわしいかたちにする。そのようにしてそれが持っていたであろう言葉、求めを代弁する。そのように関わるとき、こごまりは解けていきます。

 

あたかも「とむらい」をするようなこの作業は、意識しなくても遂行されるときがあります。いえ、実際はそちらのほうが多いでしょう。なぜかわからないけれども、そうすれば救われていくような感覚、直観に添い、引き受けたところで何の保証もないその求めを引き受けていく。力に動かされていく。

 


全て自分が動くように見えてそうではない。そこには既に力の流れがあり、その力の流れと自分の生きることを重ね合わせていく。その時、流れの力をもらうことができます。

 

「自分がする」のではなく、自分が既にしていることは何かに注目する。そうしなくてもいいはずだったのに、自分が選ばざるをえなかったこと、せざるをえなかったことは何だったのか。それは何を求めているのか。

 


「とむらわれるもの」は言葉を持ちません。自分から光のもとに姿をあらわしもしません。雪に残る足跡からそこに動いたものを知るように、心の動いた痕をなぞっていく。生きることに直接的に関わらない作業なのに、不思議とそこには自分に滋養を与えていくような回復の感覚があります。