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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

とむらいの続き2

とむらい」続き2。

とむらい」について書きたいことが複数ある。


まずはこれまで書いたように、マズロー的な「自己実現」の現象の理解をとらえ直したもの。それは社会的成功とも関係ない。営みとしては、現れてくる苦しみに対して対処し(創造的な)克服、乗り越えをしていくということ。端的にいえば既にある苦しみを減らしていくというだけに過ぎない。何か素晴らしいものを獲得すると仮定すれば高揚するが、その高い価値を設定し追い求めようとすること自体が長い目で見てプロセスの邪魔になる。強い高揚を利用して動機づけようとすることは基本的に誤り。高揚がないと動けなくなる。高揚は薬のように、耐性がつけばより強いものが必要になる。

 

もう一つ書きたいことは、「とむらうように」何かをすること自体がそもそも回復的であり、よって持続的になるということ。何か目的があり、手段があるとして、目的達成後が回復的であるというふうにとらえられることが多いと思う。すると手段は退屈だったり苦しいものだと考えることに違和感をもたない。苦痛を自分が乗り越えようと考えると高揚するのでその勢いでやろうとする。だが高揚は一時的。手段が苦痛なので、持続できないで終わる。

 

手段自体を回復的なものに設定する。さらにいえば、手段自体が回復的であれば「目的」がかりに達成されなくても、前進し続けことができる。これが大きい。失敗成功に過度に依存しないので失敗による鬱などの反動も少ない。やってきたことが無駄にならない。どのような現実が起ころうとも、それによっておこる現象に創造的に対処できる。


どのようなネガティブな現実が起ころうとも、それによって引き起こされる実際の感情や感覚を「とむらう」ことを通して、人は利害関係ではない「共にある場」をもつことができる。

「とむらうように」向き合うとは、自分に残ってしまったものに対し、消化、排出の仕組みを整えること。心は「文化」に属するので、人工のもの。人工林と同じく人がわざわざケアしないと荒れていく。「とむらい」というケアは、消化と排出のケア。

 

必然性のないことを全くしなくていい。実は何もしていなくても既に苦しい。それに気づく。そしてそこに残っている異和を知る。異和を消化し、排出する仕組みをつくりだす。

 

排出に向かう過程は自然と回復的であり、奪われていたエネルギーを取り戻す効果がある。異和と向き合い、とむらっていくということこそを手段に設定する。それは異和を逆手にとるということでもある。そのとき、それは手段でありながら実は目的でもあるという二重性を獲得する。エネルギーは減っていかない。心に滋養が与えられ、エネルギーは取り戻されていく。

 

砂連尾さんの事例を引用。

MoonWalkersさんが新しい写真4枚を追加しました
10月24日 23:16 ·
10/24はダンサー/振付家の砂連尾理さんをお招きして、望月ゼミ内の特別ワークショップを行いました。

私たちが学んでいるインタラクティブ・メディアに深い関係のある身体について、新しい発想と実践を得るために、毎年砂連尾さんに特別講師をお願いしています。今年のテーマは「呪いのツール」の創造。

はじめに砂連尾さんから「人を呪い、他人の危害を願うことはもちろん褒められたことではないが、呪いの力を過剰に封印するがあまり、抑圧された陰のパワーがいらぬ暴力を生んでいるのではないか?そこで呪いのパワーを身体から上手く導きだし外に放出する身振りやツールを一緒に考え、どんなユニークな「呪いツール」が創造出来るのか!?」というの趣旨説明がありました。

ストレッチ、ヨガの準備体操を行った後、グループごとに最近の嫌なできごとから「呪いの詞」を導き出しました。アルバイトや日常生活を発端にしたものが多かったですが、まずは「なんだよもう!」などの憤りの言葉を発するときの日常的な身振りをデフォルメし、ダンスへと発展させる基本的な方法について学びました。

グループに別れ、それぞれの「呪いの詞」を身振りからダンスへと発展させるグループワークを行い、研究室にある様々な素材(トイレットペーパーからLEDまで)をコラージュ的に集めながら「呪いのツール」となる美術をつくり、最後は「呪いのパフォーマンス」を上演しました。

日常生活で溜め込みがちな思いを押し込めるのではなく、アートやパフォーマンスに発展させることについての可能性を感じることができました。