降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「とむらい」をテーマに

とむらい」をテーマに何人もの人と対話する機会をもらう。

 

話すと理解がすすむのを実感する。

 

「とむらう」あるいは「とむらうように」かかわる・つくりだす。抽象的な言葉になっているけれど,実用概念として考えている。勝手にこねくり回してこの言葉にしているのではなくて、この言葉でストンとおさまり、集約されるものがまだ言語化できてないものも含めて確かにあると直感しているから。

 


高揚をもたらすものをもって事にのぞもうとしたり、動機づけにするのはしごく当たり前のようであるけれど、高揚は無意識的な抑圧や感じていることの麻痺に用いられることのほうが実際は多いと思われる。抑圧にはエネルギーを使う。抑え続けるのにもエネルギーが必要だ。そして抑えられたものの苦しみは蓄積される。高揚を利用したやり方は、高いエネルギーを配給し続けなければならず(これだけで破綻しやすい)、反動が約束されている。

 

高揚をもたらすものがなければ人は動かないだろうか? じっとしていると苦しくて動きだすだろう。体の痛み、退屈さ、空腹、排出、その他何であれ動因は、快であるよりも、実は苦しみのほうであると考える。快を与えることによる動機づけは実は弱く持続性がないのに気づくことはないだろうか。与えた分だけしか動かない。

 

しかし全くそうでないように見える状態もある。持続する高揚、快に突き動かされ、延々と燃え尽きず繰り返す。これも同じく苦しみから由来するものとみる。激しい肉体労働のあとに飲む水の美味しさ。快の大きさは苦の大きさと釣り合う。

 

あからさまに感覚される苦しみがあり、一方で意識しにくい苦しみ、ほぼ無意識にあるような苦しみがある。この苦しみは、常に背景として存在し、生きていくときにおこる全ての出来事のトーンに影を投げかけるような苦しみ。根源的な苦しみだ。

 

この根源的な苦しみに対して向き合い、効果的な対処方法を生み出すとき、喜び、充実感がともなう。身体に備わっている生きる力とは、加わった圧力に対して反発し押し戻そうとする力、(想定された)元に戻そうとする力のことだと思う。外部からの圧力に反逆し、打ち勝つ。これが生の実感をもたらす。

 

根源的な苦しみは終わらない。生きている限り続く。それはシルヴァスタインの「ぼくを探しに」に象徴的にあらわされている。失われたかけら。これがもたらす空虚感、苦しみが旅を始め、続けざるを得ない動機。だが主人公は最後に気づく。この埋められない欠落の存在こそが、この世界に意味とより大きな喜びをつくりだす創造性の源でもあるのだと。救いは苦しみの存在そのもののなかにあった。旅は続くが、心のさまよいは終わった。

 

持続的な喜びは、この根源的な苦しみ、終わらない苦しみに対し向き合い、その圧倒から自分を救い浮かび上がらせていくことによってあらわれる。これは強く持続的な力。苦しみに終わりがない限り、この力の源も尽きることがない。ただ向き合い方は誰にも手引きできない。自分でつくりだすしかない。サバイバルだ。

 

向き合い方を間違えると、社会的に「成功」を続けていても満たされず、さらにさらにを求める。そもそも社会的な成功をするかしないかは苦しみの救いと直接の関係はない。ただ向き合いが深くなるときは、周りの環境とともに回復していくのでそれを「社会的成功」と人がみなすことはあるだろう。

 

根源的な苦しみに対しての向き合い方の深度は様々だ。そこに向き合うにはリスクがあるのでそれを避けようとすることもできるが、体は結局救いに関心をもつので、避けながら周りをぐるぐるまわることになる。また苦しみからの影響は避けられないので、それを埋め合わせる行動を繰り返さざるを得ない。

 

どのような深度で向き合おうとその個人の生き方は、失敗するか成功するか、手段が適切か全くそうでないかにかかわらず、自分から奪われてしまったもの、失われたものを本来あるべきだった状態に戻そうとする試行としてあらわれる。

 

誰もが何かを「とむらうように」生きている。どう抵抗しても「とむらうように」生きてしまう。ならば、もともともつこの傾向、この大きな力、動機を最初から考慮にいれて生きれば必要以上の苦しみを得るとこなく、スムーズな向き合いに移行できるだろうと考える。抵抗をやめるとも言える。結局ここが充実感をもたらすものであるので。

 

こう考えるなら、無理やり自分をたきつけ、高揚に高揚を重ねて生きようとしているときは、高揚させねばやっていけない、やってられないような苦しみが存在するためにそうせざるを得ないのだと見当をつけることができるようになる。

 

そのすでにある苦しみに光をあて、意識化したのちにその苦しみの原因を探し、解いていく向き合いをする。この意識的な「とむらい」の作業を遂行することによって、苦しみが減り、抑圧に使われていたエネルギーは解放され自分に統合される。

 

この向き合いは、意識化も何もせず苦しみを放って置いた結果、勝手に体がアクティングアウトして問題行動をおこしてしまったり、病になったりしまうことを避けられるだけでなく、すっきりとした気持ちよいエネルギーが流れだすような回復し満たされる感覚をともなう。心は落ち着き、より微細な苦しみに気づいてケアができるようになる循環を導く。

 

とむらい」は「自己実現」と呼ばれる現象を違ったかたちで把握し位置づけるものでもある。なぜ「自己実現」と言わないかというと、その理由の一つは「自己実現」という言葉は強くボジティブな意味を喚起し、高揚を誘うものであることがある。非の打ち所がない肯定的な言葉は、実際のところ強迫概念として働く。人を緊張させ、失敗を恐れさせる。心は恐怖に弱く、自然な感性と回復力が奪われる。

 

ボジティブな強迫的価値に侵食された心から強迫的価値を取り除いていくほうが、無理やりの高揚を使って体をコントロールしようとするよりも、エネルギーはかえってくる。これは、強迫的価値をニュートラルにするということといえるだろう。

 


とむらい」という捉え方、アプローチでは、まだ知らない新しい何かを「獲得」し、「成長」していくことであるよりも、既にあるものに対して繊細になっていこうとする。既にある苦しみ、既にある動機を理解し、そこにおこっている不具合を取り除いていく。強迫的なものをニュートラルにしていく。生きる力、創造性は、どこかから見つけて付け加えるように獲得すものではなく、既にある苦しみ、詰まりを取り除いていくときに副次的にあらわれると考える。