降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

人工林の自由 言葉の毒性

意図しようとしまいと「〜であるならば価値がある」「〜であるから幸せだ」という言及は、「〜でなければ価値がない」、「〜でなければ幸せでない」という示唆を含まずにはいられない。「希望」という言葉が語られるときは、実はその対極である「絶望」への恐怖があり、無意識であれその行為は自分を鼓舞しながら自分をおびやかす不穏な背景をつくりだしているという矛盾をかかえている。

 

 

相手に働きかけるという戦略的な使い方のときは話しは全く別で、自分自身に対してのこころの調整の話しなのだけれど、こころは恐怖に弱く、人を自然に導く身体のニュートラルな意思は些細な恐怖によって歪められる。だから自分で自分のこころを縛ったり、恐怖にさらさないコントロールをしている人は、何かの強い価値を強弁していない。あるいはそこから脱していく。自身の業績を自慢せず謙虚に見えるのは、自分のパフォーマンスの追求からであって、こころのうちに余計な条件付けや影響をもたらすものを自らすすんで取り入れたりはしないということなのだと思う。

 

 

そのコントロールをうまくやっている人の話しぶりをきくと、価値を自分に対して意識させないように、価値のありなしを可能な限り打ち消し、ニュートラルにしている。(どっちもどっち論もこの機制だが、こちらは往々にして自分を揺るがすものに対する自動的、場当たり的な防衛反応であって意識的な調整が行き着いたものではないと思っている。)

 

言葉は、ドラッグでもあり、生きたものに干渉し、コントロールを強制し、機械化もする。でも全くの自然(というものはないと思うけど)のままがいいかというと、そもそもそこに戻れないし、戻ってもいいけれど多分もどったとしても、ただ戻ったという以上のことはないと思う。いいとか悪いとかない世界だから、戻った「意義」も打ち消される。

 

 

人がいったん手を入れた人工林は、ずっと人為的なケアがいる。ケアがないと荒れていく。そのケアの仕方も自分で考え編み出していく必要がある。人はもう人工林なのだから人工林としてケアしていくしかない。誰も指針を示してくれない。人は言葉がもたらした自由の代わりに孤独のなかに放り出されている。

 

 

言葉や価値観は無意識のうちに身体化しているが、無意識化、自動可したそれをとっていくときも、言葉とそのコントロールの力を使う。毒をもって毒を制するという無理やり感あふれるやり方でいくしかないけれど、もともと生きものというのもよく見たら無理やり生きてるよねと思えば別段特別なことでもない。帳尻がどんなときもぴったり合うところに自由もない。