降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ギブスとしてのパーソナリティ

パーソナリティタイプ論は、あれば大体見てしまう。野口整体の体癖論も興味深いのだけど、売っている本で詳しく紹介されているようなものを見つけていない。


 
「体壁論」という本はあるけれど晴哉さんはあまり解説するタイプじゃないように思える。このことの正しさはあちらでも共通性があるから確かだ→はい、説明終わり。の繰り返しという印象。
 
 
 
一方、野口整体を基点にして自分流の体系をつくられた片山洋次郎さんの解説は、体癖論の話しでも何がどうなってそうなっているのかが詳しく記述されていてわかりやすい。
 
 
タイプ論のいいところの一つは、器質的なところや変わらない傾向をはっきりさせるので、そこにそれ以上ああだこうだと混乱したり気を迷わせるのを止め、それはそれとしてニュートラルにとらえられるようになることかと思う。
 
今まで知っているなかで一番密度が濃く、面白かったタイプ論は、ドン・リソとラス・ハドソンのエニアグラム。日本では少し前に鈴木秀子さんのエニアグラム本が色々出ていて、僕もそこから入って、他の著者のものも見たけどリソ&ハドソンのものの詳しさ、洞察の深さ、的確さは群を抜いていると思う。
 
 
リソ&ハドソンの本のなかにパーソナリティとはギブスであるというくだりがある。多重人格者が現実の脅威に対する防衛のためにそれぞれの人格を作り出すが、統合されたパーソナリティであってもそれは防衛という機能をその本質とするとリソらはとらえる。
 
 
性格は激流のなかでつくられ、才能は静けさのなかでつくられるというゲーテの言葉があるように、パーソナリティは自分が経験した大きな脅威に対応するために作られる。
 
 
しかし、子どものころに最大級の脅威だったものが大人になっても脅威のままであるとは限らない。
 
 
また大人になれば安全な場所は自分で選び、そこでは全くの自由になることもできるはずなのだが、最警戒状態は身体化されており、どんな時も常にそれが保ち続けられる。
 
防衛によって外から影響を受けにくいということは、外界からエネルギーを取り入れたり、自由に関わるということも犠牲にしているし、高い緊張は疲労を伴う。
 
 
太陽と北風の物語で男が北風に対して服を着込むように、人は危険で劣悪な環境に晒されればさらされるほど、パーソナリティの機能への依存度を深める。
 
 
パーソナリティとは、つまるところこうしたらこう反応するというプログラムなので、そこへ依存せざるを得なくなると、人はより機械的、自動的になり、様々な文脈を受け止めきれず、決まった反応を繰り返す。
 
 
それは単一の文脈に対する反応なので、現実の複雑さに対しては不適応な行動となり、さらにその人は追い詰められる悪循環を生む。
 
 
防衛としてのパーソナリティが前面に出てこなければいけないほどの状況から離れ、安全で安心、尊厳を与えられている環境に入ると、ギブスとしてのパーソナリティは緩み、自由を回復しはじめる。
 
 
なるべくその環境を維持し、不安への反応だった過去のパターンから、現在の体や心の求めにそった行動への踏み出しを行っていくことで、ギブスはその必要性を終えていく。それは人格がなくなるということではなくて、特定の防衛反応から離れていくということだ。
 
 
そして、大事になってくるのは、環境が整えられた状態での踏み出しをいかに発現させるかということになるだろうと思う。
 
タイプ論を読むだけでは反応のパターンは変わらない。反応に対する新しい回路が作られる必要がある。
 
 
その回路はもちろん恐怖への対応としてできるものではなく、体の自律性が求める解放としての回路でなければ意味がない。自律性のシグナルを感じ、そこに身を賭ける。それを可能とする環境をつくることが必要なのだろう。