降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

再読 西岡常一『木のいのち 木のこころ 天』

既にあるものがどこかで答えを出しているから、それを自分なりに探し出そうとしている。学生のとき、心理学から人類学のほうにうつったのもそうだ。その分野で行き詰まっているようなことは、他の分野に転がっていることからアプローチしたほうがいいと思う。

 

誰かに証明する必要はない。自分が先に進めればいいと思った。心理学から人類学にうつったとき、「それは心理学では言われてるかもしれないけれど、人類学では共有されていないから」と言われたときがあった。つまらないなと思った。

 

これはこの分野の話しということで囲い込み、限定したら知見は個々バラバラのものになってしまう。これはこうで、あっちはそう、ということから統合的な理解の枠組みをもちたいのに。

 

前の大学院にいたときに、なるほどこういう人が研究者向けなのか、とよくわかったときがあった。自分は研究者には向いてないし、自分の興味ないことをすいすいと整理してまとめられる頭の良さもない。そこに適応できる余剰の動機も器用さも能力も備わってないと思った。

 

自分の知りたいこと、やりたいことに近づいていくためには、自意識がやろうと思う以前に存在する体の求めと既にそこに流れているものの力を借りなければいけないと思った。持っているものは限られている。ならば既にある動機そのもの、その真ん中を行くようにするしかない。自意識の力ではまるで足りない。

 

根源的な動機とは終わりのない飢え。それが自分の体を動かす。その飢えは、埋めることのできない欠落、脅威に対して生まれる。脅威に対する生きものとしての危機感。それが補償をおこそうとする大きなエネルギーになる。その過剰な力を利用することができる。

 

西岡さんの話しは、その構造を描き出していると思った。

 

木のいのち木のこころ〈天〉

木のいのち木のこころ〈天〉

 

 

 

木の質は土の質によって決まりますし、木の癖は「木の心」といってもいいかもしれませんが、それは山の環境によって生まれますな。たとえば山の南斜面に生えた木を例にとってみましょう。この木の日の当たらない北向きの側には枝が少ないんですな。あったとしても細くて小さいものです。逆によく日の当たる南側には大きく太い枝が出ます。


この地形が年間平均すると西からの風が強い場所だったとすると、この木の南の枝は風に押されますな。それで東に捻れます。しかし、この木が風によって無理に東に捻られているために何とかしてもとに戻ろうとする性質が生まれてくるんです。この元に戻ろうとする性質をこの木の癖といいますのや。すべての木には生える場所によってこうした癖ができますな。

 

逃れることのできない脅威に対して、それでも生きようとする生きものの身体自体が持つ反逆の力。あるべきところに戻ろうとする力。その力の過剰さを利用する。

 

「木は生育の方位のままに使え」

山ごと買った木をどう生かすかということです。その山の南に生えていた木は塔を建てるときに南側に使えというているんですな。同じように北の木は北に、西の木は西に、東の木は東に、育った木の方位のままに使えということですな。

 

山の東側に生える木は、東という方向に対して強い抵抗力、そこから受ける圧力に侵食されない反発力を備える。それは死してなお残る。

 

人の能力、動機とは、逃れられない危機に対しての反応として生まれると思う。動機とは与えられた危機に対応するもの。人が何かをやったとは、やらざるを得なかったということ。より脅威のないニュートラルな状態では癖も動機も弱くなる。

 

谷は水分も多く養分も十分にありますわ。こうしたところでは光も嵐もそんなに強くなく、木は素直に育ちます。こうして素直に育った木は癖がない代わりに強さもそないにありませんから、長押や天井、化粧板なぞの造作材に使えというんですな。 

 

山の中腹以上峠までの木は構造材に使えというのは、ここらに育った木はたくさんの光を浴びてしっかり育っていますな。日当たりはいいんですが、風も当たる。嵐にもうたれる、雨にもたたかれる、中腹以上の木はこうした環境で育っているから木質が強く、癖もまた強いんですな。こうした癖があり、強い木は柱や桁、梁などの建物を支える骨組みになる部分に使いなさいと教えているんです。

 

畑の話しになるけれど、大豆などは土が栄養豊富すぎるとあまり実をつけない。危機がなく、実りを多くする必要がないのだ。実り多いのがよい、という考え方はそれを利用するものの理屈であって、実りの多さは危機への対応としてある。こういうことから人間をみたら、実りの多さ、生産性、成長の推奨というのは、一体誰のためなのか?という視点も自然に生まれると思う。自然が厳しいというのならわかるが、なぜ人間が人間に対して危機状態の副産物を生産させようとするのか、と。あるものを自分のために搾り取ろうとしているほかに何か理由があるだろうか。

 

中腹の木の話しは、成長主義の人には快いかもしれない。だが誰もが峠や中腹に生えているわけではない。人間のあるべき姿を一律にとらえる思考のいびつさは抑圧となって現れ、本来あったはずの可能性や力を奪い、世界の力を衰退させる。

 

だが、そのような考え方が普通にまかり通るような社会にあってなお生きるときに、自分が利用するのもまた危機の力だ。圧力をはねのけ、あるべき状態に戻ろうする力を使う。自分は山の北側に生えた木なのか、それとも谷に生えた木なのか。その場所に生まれたがゆえに備わる力の流れを利用することができる。サバイバルにおいては、逆手に取ることが正攻法だ。

 

建物を組み上げるのに寸法は欠かせぬものやけど、それ以上に木の癖を組むことが大切やというているんですな。

左に捻れを戻そうとする木と、右に捻れを戻そうとする木を組み合わせて部材同士の力で癖を封じて建物全体のゆがみを防ぐんです。もしこのことを知らずに、右に捻れそうな木ばかり並べて柱にしたら、建物全体が右に捻れてしまいますな。

製材されてしまってからでは木の癖は見わけづらいんですな。この西に戻ろうとする癖の木は、切り倒され、乾燥しますと木の本音を出すんです。

 

法隆寺五重塔や金堂を解体してみまして、この口伝が完璧に守られているのを感じました。みごとなもんですな。この癖組みが完璧なことが、千三百年たっても建物をゆがまさずに、五重の軒先を一直線に持たせている理由ですわ。

 

まっすぐとは、癖の力と癖の力を相殺させた結果に生まれる。自然のものをどう利用しているかを知ることで、具体から離れた違う分野のことを理解する手がかりになると思う。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

私は長く大工をやってきましたけど、自分が新しく考え出したものは何もありませんでした。それより解体修理をしながら、どうやってこんなことができたんやろと考えさせられることばかりでしたな。今でも飛鳥の工人に追いつかないと思っとるんです。

 

西岡さんは、最後の宮大工として生きた。昔のままの宮大工が宮大工として支えられる環境はなかったのだ。(技術や飛鳥の工人のこころは内弟子の小川三夫さんに継がれている。)そして支えられる環境とは、国家や寺社などの権力の庇護だったんだろうなと思う。そう思うとただすごいとか素晴らしいとか手放しではいえず、複雑な気持ちが残る。何であれそうなのかもしれないけれど。誰しもが盗賊だ。

 

次巻の『木のいのち 木のこころ 地』では、西岡さんに弟子入りした小川三夫さんの聞き書きがまとめられている。宮大工の家に生まれたわけでもない小川さんが西岡さんに弟子入りし、飛鳥の時代から受け継がれきた技術と思想を身につける。

 

小川さんは同時に現代においてそれを受け継いでいくための仕組みもつくる。個人的には、こっちの本のほうが自分の関心と一致していたかもしれない。西岡さんは伝統的な信念に基づいた語りだったが、小川さんは西岡さんから多くのものを受け取りながらも同時に自由なところがある。小川さんは旅人としての感覚をもっていると思う。

 

木のいのち木のこころ〈地〉

木のいのち木のこころ〈地〉