降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ほどよい枠組み 相殺の妙 音遊びの会、沼田里衣さんのお話しを聞きに

音遊びの会の代表の沼田里衣さんがお話しされる「自由とは?フラットな場作り」に。

 

waon0317.ti-da.net

 

音遊びの会は、知的な障害がある人と音楽家やダンサーなどが共に舞台をつくりあげる活動をされている。HPでの紹介によると2005年ごろから週末ごとに神戸大学の音楽棟や公園、山に行き、即興や図形楽譜で遊ぶ大学院生たちがいて、この院生たちが2005年9月、エイブル・アート・ジャパンの助成を受け、知的な障害のある人たちを募集し、地域の即興演奏を得意とする音楽家やゲストミュージシャン、そして音楽療法家を招待して、「音遊びプロジェクト」として始まったとのこと。

 

音遊びの会とは

 

音遊びの会の名前は、ちょっと前にFB上で割と頻繁にアップされていたり、ETVで特集されていたのは知っていたが直接関係者のお話しをきけたりする機会がなかった。

 

www.youtube.com

 

今回、「自由とは?フラットな場作り」という真正面なテーマがあり、かつ少人数で話しができるということで、行くにはとてもいい機会だと思った。

 

場にあからさまな構造的偏りを生まないために、アーティストと障害のある人の数は同数だという。

 

福祉」とか、「障害者」のためではなく、「面白さ」を大事にしているところだなと感じ、とても興味深くお話しをきく。あなたのためにやってあげるというのは、戦略的な言い方、政治としては必要であるかもしれないが、人の心の機微が重要なところにおいて企画側が本気でそう思っているのなら、その思い込みは悪いようにはたらくばかりだと思う。それは詰まりになる。そもそも肯定的な変化は、詰まりを取り除くところにおこる。

 

詰まりは既にある。よってやることとは、現実の相手や自分に対して、既知の概念やあるべき姿を押しつけることではなく、耳を澄ますことだと思う。既にあること、既に起こっていること、気づいてないものに気づこうとする。

 

 沼田さんのお話しをきいていると、音遊びの会で行っていることは、対話なのだと思った。

 

共に舞台をつくるという制限が、もともとまるで違うところにいた人たちがやりとりしてつくりあげていかなければならない必然をつくる。まずそれが対話の土台だ。

 

その上で、それぞれのアーティストにはアーティストとしての妥協のない求めがある。だがその求めはそのまま障害のある人に通じるわけではない。全くうまくいかず、それまでのやり方を変えざるをえない状況が生まれる。障害のある人たちにもそれぞれに独自の求めや限界がある。またその保護者にはまた全く違う求めがある。

 

対話とはこういう異質物のぶつかりあいだと思う。それはただ喧嘩するということではない(喧嘩も含むかもしれないが)。どうしようもない障害、思想や立場による限界、そういう現実が隠蔽されたり、わきに置かれたりすることなくぶつかりあうことそれ自体が対話だと思う。必ずしも言葉を使ったやりとりでもない。対話のその瞬間、当事者でさえそれが対話というよりはただのトラブルとしか受け取れないような出来事、対話とはそのようなものではないかと思っている。

 

目立った障害もなく、ある程度融通の利く人は、日常では、本当はそう思っていないのに、ものわかりのいいような「あわせ」をするものだと思う。日常は便宜上のこととか、経済性とか、不注意とか、やつあたりとか、様々な要素がごちゃまぜの混沌となっている危険な場で、それぞれの個人はともあれそこをサバイブしなければならない。サバイバルが優先される。そのためそこで出てくるものが画一的になり、当たり障りなく、つまらないものになってしまいがちだと思う。

 

だがそのようなあり方は、個人に質的変化をもたらしにくい。だから余計な心配をしなくてもいいように、内にあるものが十全に遊べるように場は設定される。それぞれの個が尊重され、かつ十分なぶつかりあいが許されていて、同時にそうしなければ進んでいかない制限がつくられていると、そこに独立した生きもののように動く力動が生まれてくる。

 

振付家の砂連尾理さんが、人は困っているときに一番クリエイティブな動きをすると言っていたのを思い出す。

 

クリエイティブというのは、そこに内在していたものがそこにある規制や体制を破綻させて出てきたその一瞬のことを言うのだろうかと思う。私という自意識がありながら、その意図をこえて現れ出るものがある。

 

自由には、行き場のない力が前提として必要だと思う。行き場が決まっているのなら自由ではない。行き場のない力があるからこそ、その力は転用に使われたり、台風で増水した水のように、前に流れていた通路からあふれ、別の通路をつくることができる。

 

必要なのは制限の設定なのだと思う。既にそれとして成り立っていたものを成り立たせなくする。それが行き場のない力を生む。そして行き場のない力は、自身が流れるに最も適する通路をつくりだす。

 

それは自分が流れるために、そこに内在化していた規範を破綻させ、状態を更新する。その瞬間は、解放と自由の瞬間であり、また必然とも感じられるかもしれない。そしてその力は、変化をおこした当事者だけでなく、それを見ていた者にも干渉し変えていくようだ。

 

今回のお話し会のテーマは、「自由とは? フラットな場作り」ということだったが、場の自由というものは、企画者によって本当に作られることができるものだろうかと思うとそうは思えなかった。空間において明らかな構造的偏りを気づいた範囲でそれを相殺する仕組みを盛り込むことはできるだろうが、それを自由とまではいえないと思う。フラットといっても、実際の空間や人の状態を掴み切れるわけがなくて、感じ取れる範囲で場の構造の偏りを相殺した状態に近づけるというだけだと思う。

 

自由とは、自分や自意識からも自由なものだと思う。それは、自意識が直接生むことはできず、妥協のない異質物のぶつかりあいから派生すると思う。それを僕は<対話>と定義したい。

 

おしゃべりしあうだけでも一般には対話と呼ばれるけれど、そこに変わる必然がなければ、変化はおきない。そうであるのならそれは<対話>ではないとする。おしゃべりが無駄なものであるとか、必要ないという意味ではなくて、ただ別のものだと考える。

 

自意識の意図的操作やあからさまな狙いによって、直接的に自分や人を変えることはできない。むしろそれはその場でおこる自律的なプロセスを抑圧する。自意識はあくまで環境を整えられるだけだ。その整えとは具体的には、たとえば共に舞台をつくるという設定であり、アーティストと障害者が同数にするというようなことだと思う。

 

人がどれだけの変化をおこすかということには、その人自身の体が変化を求めるモードに入っているのかということがまず抜きにできないと思う。次に、妥協のない他者性、異質物とのぶつかりがおこる環境を設定すること。そのことによって、副次的に変化はおこると思う。

 

そして異質物とのぶつかりとしての<対話>は、乱暴な場所ではなく、丁寧に調整された安全な場でおこる。変化するというのは、今ある強さを一旦捨てるということでもあるから、脅かされている状態では移行ははじまらない。

 

そこで必要な姿勢は、自律的なものに対して信頼だと思う。環境はどこまでも整えるが、変化自体はあくまで自律的なもの同士のやりとりによっておこる。そのことへの信頼だ。自分がやるのではない。そういう意味では、ある種覚悟ともいえるものかもしれない。

 

沼田さんからぽろりと出た言葉に「ほどよい枠組み」というものがあった。僕はこれが全てを語っているなと思った。元々、自律的なものが自律的なやりとりによって変化を起こしていくのだから、そのやりとりがうまくおこるように、本来おこるべきやりとりを邪魔している構造、詰まりを感じ取り、相殺し、取り除く。フラットや自由というのは、あくまで方向性であって、実際にこれが自由だ、これがフラットという状態があるわけではない。構造の偏りの影響を相殺するのが枠組みということになるのではないかと思う。

 

その場その場の行動や声かけ一つもその場での枠組みとなる。様々な水準で、ただほどよさを調整していく。