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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

2段階目の自立

教育でもワークショップでもあるいは運動等でもそうだと思うけれど、不特定多数の人に対して一斉に行うアプローチは、自力をつけ、向かうところを拓くということにおいては、両輪のうちの片輪でしかないと思っている。僕はこれらをさしあたり大きなデザインと勝手に呼んでいる。

 

一方で、個々人がそれぞれの特性をもちながら、持続的な学び、持続的なエンパワメント、状況をつくりだし生きていく力、個性に対する融通性を身につけていくのは、ちいさなデザインによってなされると思っている。

 

想像してほしいのだけれど、一旦運動等によって何かを止めることができたり、つくることができたとする。しかし、それだけで自然に世界はよくなっていくだろうか。一回の大きな成果だけでは十分ではないと思う。

 

徳島の吉野川可動堰の市民運動は、国が一旦始めた計画を市民の力によって止めることができた最初のケースときく。「反対」ではなく「疑問」によって事実を明らかにしていくスタンス、徹底して一般市民の視点から広げていった運動が、長良川でおこった惨状が同じように徳島で繰り返されるのを止めた。

 

しかし、市民の力はそのまま力強い奔流となって議会の体質や地域を変えていったかというと必ずしもそうではなかったらしい。市民派の議員が当選しても、保守的な地盤や議会の抵抗によって力を奪われ、辞めさせられたりしていったという。

 

運動の最中は大きな盛り上がりがあり、その力によって運動は成功をおさめたけれど、その熱意、その力を持続することは難しかった。

 

持続性とはなんなのか。本来的なところからの変化、質的な変化は、どのようにおこるのか。

 

環境に質的な変化が生まれるためには、個々がそれぞれの思うところを自分の裁量によって深めていくことが必要だと思う。そうでなければ、誤ちは普通に繰り返されるだろう。あるいはいざというときに力が不足するだろう。いざとなったときに、自分の都合で物事を動かそうとする力に対して、それを好きにさせない実質的な力を育んでいくためにはどうするのか。

 

デンマークで、全国に広がる一つ一つの学校(高校卒業後、大学の前に自由意志で行く寄宿制の学校)は、学びたいことを求め、学校間を行き来する学生たちのネットワークを派生させた。それらのネットワークの核は、個と個の関係性の重なりによるネットワークだと思う。

 

自治会とか、会社組織とか、親族グループではなくて、それ以前の個と個の関係性こそ、社会の公共性の基礎を構成するものだと僕は思う。

 

誰もが生きやすい社会と、自分の所属グループが生きやすい社会は真逆のものだ。後者のほうは、無視と奪いとゴリ押しでできていく社会。ほおっておくと自然に後者になる。

 

デンマーク原発をつくるという計画が持ち上がったとき、国民はそれをとめることができた。強い力でゴリ押ししようとするものに対抗することができた。

 

その実質的な力の背景には、各地の学校とそこを行き来する個々の学生の関係性という小さく強い基礎があった。家計を共にするのでもない個と個の関係性の強さ。その重なりが本物の力になるのだと思う。

 

ちいさなデザインは、人としての個と個の関係性をいかに育てるかを意識する。地震がおきた時にその場で頼れ、助け合えるような関係性こそが実質。実質を育む。しかし、それは強制的につくられるものではなく、人が自然と誰かと友達になるようなものだ。

 

デンマークの事例からみるなら、そのような状態はデザインによって派生させ、活性化させることができると思う。人に何かを直接させるデザインではなく、「結果的」に交流がおき、関係性が育っていくようなデザイン。誰かに友達になれとか、協力しろとか言われてなったりやったりするのではなく、自分で選び取るような関係性は、必ず派生的、副次的におこるものだ。それを間違ってはうまくいかない。

 

陸奥賢さんは、まわしよみ新聞ほか様々な遊びを考案されている。陸奥さんはそれをコモンズ・デザインと呼んでていて、一旦覚えれば自分たちで勝手にできるもの。自律的になると、裁量の幅がふえ、応用が利くようになっていく。

 

基本的にどこかからきたファシリテーターではなく、そこここで、自分たちでやるという2段階目に入ることが学びを深めたり、応用できるようになるためには必要だ。そのことによってようやく自律的になれる。自分たちにあわせることもできるし、どのように状況設定をしたらいいのかという感覚が開かれ、研ぎ澄まされてくる。やっていると結局、面白くて自由で疲れないということも実感されてくる。自信も生まれる。そして関係性が育てば育つほど、自由になり、やりやすくなる。この循環を獲得していくときに、人は自然に公共的な存在になるように思う。

 

何かのひとまとまりの一員としての自分ではなく、この自分として自分を育てる。自分が面白いと思うもの、自分に必要なものを自分に提供するということができるようになるのが、2段階目の自立だ。この2段階目の自立こそが時代が必要とするものだと思う。

 

ほどよさのデザインは最終的には自分でしかできない。ほどよくなければ持続もできない。だから大きなデザインだけに依存して、環境が変わるのを期待するのは無理がある。個々の人が自分が進めるように自由に状況を設定し、デザインする。その時、大きな環境もまた質的変容を遂げているだろうと思う。