降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

人の変化について アズワン・コミュニティに行ってきた2

人の変化についてずっと関心を持ってきた。

 

最初のころは、肯定的な変化を「成長」と考えてきたが、今はその言葉は使わない。このブログの最初のエントリーも『「成長」しない』だった。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

できなかったことができるようになったり、うまくいかなかったことがうまくようになることはあるだろう。そういう時、一般に成長という言葉がよく使われている。

 

そのようにみえる現象があり、それがある種の変化をさしていることは同意する。

 

しかし、それは実際に「私」が 「成長」しているのだろうか。本当にそういうことはあるだろうか。自分なりに確かめてきた結果、「人格」というものも実際にはない。それゆえ成長する主体がないのだから「成長」もない。

 

自然という言葉を例にとってみる。実際にあるのは個々の現象。もちろん相互に関連しあっているので、統一体のようにとらえることもできる。だからといって、自然というものは一つの主体としては存在しない。

 

「私」や「人格」も同じだと思っている。個々のものが組み合わさって、見かけ上の統一体をイメージさせる。そしてその統一体が本当に実体としてあるものだと錯覚してしまう。

 

統合失調症は昔、精神分裂病とよばれた。まとまりをもった一つのものが分裂してしまう。統一体としての「私」がなくなってしまう、と。

 

だが統一した状態が本来的なものだろうか。そうは思わない。分裂できるならそれはもともと個別にあったものだったのだと考える。バラバラなものがあり、それが組み合わさって統合的な働きが生まれる。「私」とは、個々バラバラなものが組み合わさり、協同した結果の見かけ上、働き上の統一のことだ。

 

実体として「私」があると認識するのと、働きが組み合わさってあたかも統一体のように見えるものがあるということは全く別のことだ。「私」があると考えることは、その時点でフィクションを現実化している。最初から間違っているので、そこを起点に何かを考えて出てくる推論や結論の類も全て間違いになる。

 

「私」が「成長」する。この言葉を鵜呑みにしたときのギリギリとした緊張感が、実際には変化や移行を阻む。「成長」を仮定した瞬間、「成長していない私」がいる。「成長」しないといけない。ここに否定がある。この否定がもたらす緊張。あってはならないことへのおそれ。この緊張状態が今の状態へのとどまりを強化する。

 

「私は成長した」と高らかに宣言することは、近い将来の停滞を宣言しているのと同じだ。「成長しないかもしれない私」という恐怖を抱え、すでに緊張しているからだ。そして往々にしてその緊張があることにも気づいていない。その緊張はいらない。ないほうがうまくいく。それは実際には詰まり以外のなにものでもない。

 

「成長する」という言葉を真に受けることで、詰まりを一つを加えている。変化を阻害する要素をわざわざ自分から抱え込む必要はない。

 

人が変化するときは、むしろ既に自分に内在化されていた価値観や規範から自由になった時だ。構造化され、内在化されたものが破綻したとき、変化は自動的におこる。「私」が「私」を直接変えることはできない。詰まりが取り除かれたとき、そこに変化がおこる。もうそれはかつてのものではない。

 

内在化されているもの、思い込んでいるものを破綻させていく。そのことによって、詰まりをとっていくことができる。

 

破綻させる手段として、観察がある。今、自分が実体化させているものは、本当にそうか。吟味し、観察することによって、自分と一体化していた自分の思い込みが破綻する。

 

私にはこういう問題があり、ここをこういうふうに変えたい、といってアプローチしているつもりの途中に、問題が問題として成り立っていた前提に不意に気づく。

 

積み上げられた積み木がある。しかし、よくみると重心を載せるのに必要な積み木がそもそも存在していないのに気づく。よって積み木は積み上がってもいない。イメージ上でしか実在しなかったのだ。その積み木が自分にもたらしていたリアリティが破綻する。それは盲目的に信じている間だけ自分に影響や反応をもたらすものだったのだ。

 

破綻した瞬間、もう何かが変わっている。しかし、それはここがこうなったということができない変化だ。その変化は「この私がこうなる」というような予測の範囲外にある。自分でも何が変わったのかわからない。ただ、もう前の状態ではない。一つの詰まりはとれている。それぐらいがわかる程度だ。血管のなかにあった詰まりがとれ、血が循環するときにおこる体の変化の全体像を自分で捉えられるだろうか? どこここに何がおこっていて、それぞれがこう働いてその結果こうなっていると言えるだろうか?

 

「成長」がイメージさせる変化が、頭や体に強く刻み込むように獲得されたり、重々しく付け加えられるような感触なのに対して、この観察による変化は取り去るイメージだ。軽くなる。よって自由になる。より高性能になるアップグレードでなく、邪魔していたものを取り除いたからもともとあったものが発揮されるという感じだ。

 

 

前置きが長くなった。

 

アズワン・コミュニティは、かつてある農的共同体に所属していた人たちが立ち上げたものと聞いている。理想をあげながらその共同体をつくっていたはずなのに、なぜか人と人が縛りあう。一人一人は真面目でいい人なのに、それでも組織になったとき、人が人を否定してしまう環境が生まれる。いい感じにならない。

 

そうなってしまうのなぜなのか。そうではないあり方はないのか。有志とともに独立し、10年以上も試行錯誤を続けてきて今がある。何が人と人を縛るのか、問題を発生させるのか。個々人に理念やルールを押しつけ、抑圧で解決をはかるのではなく、何が問題を構成しているのかを観察し、探求する仕組みをつくった。その歩みの結果に今は手応えがあるという。

 

アズワンに行って、出会う人たちは、自然体で個々に味がある。個性が抑圧されていない。別の共同体の見学に行った時に感じた、共同体外の価値観への否定、結局リーダーが価値観を決定している感じなどがなかった。

 

よく考えると、アズワンでは単に方法論だけで上手くいっているわけではないと思った。加入には財産の放棄が必要な農的共同体にかつて加入していたという時点で、核家族へのこだわりとか、資本主義社会での出世だとか、私有財産制などに距離をもてるのだ。今ある制度から既に割と自由なのだ。そして意思をもった人たちが脱退してつくったわけだから、人のせいにせず自分たちで環境をつくろうという自律性がある。

 

誤解を恐れずいうと、僕は催しや活動をやるときのフィルタリングは重要だと思う。誰でも来てくださいという催しは、もし具体的に何かの状態を求めるなら、あまりに投げやりであると思う。何かの状態を求めるなら、それにふさわしい環境や要素が必要だ。必要以下であっても必要以上であってもうまくいかない。

 

だが、これこれこういう人は来ないでくださいなどという排除は、来て欲しい感じの人にすら影響を与えてしまう。そんなことをあからさまに言う感覚のところには自分も行かない。

 

では、どうするか。まずはコンセプトを明確にする。超具体的にこれこれこういうことをやると提示する。安ければいいという参加費設定もしない。ハードルはただ下げればいいと考えるのは誤りだ。ハードルを下げればくるという人は、同時にあまり何かをする動機が強くない人である場合も多い。この指とまれでやりたい人がくる。別にアンフェアでもないだろう。

 

アズワンの人たちは、普通の人が自分の生をおまかせしている既存の制度を二度も捨ててきた人たちなので精神的自律度がそもそも高い。また食料生産が自前でできる能力があるので、それは共同体に維持に寄与するだけでなく、お弁当屋さんを設立するなどの事業の展開にもつながる。

 

そのフィルタリングの基盤の上で、さらに一人一人が自分の思考や価値観、問題などを観察していける仕組みを作った。誰かの考えを吟味もせずに一斉に従うのではなく、自分が出会う問題はなぜおこっているのかをそれぞれが考える。

 

その場では高揚して何かわかった気になるが、一つ余分にオブラートを重ねただけで、一定期間しかその高揚も続かなかったり、反動がきたりする自己啓発セミナーや研修などではなく、何かの感情がおこったとき、自分のなかはどうなっていたのか、それを観察する。それを各人がライフワークで続けていける仕組み。

 

地味極まりない正攻法。それをしっかりやる。合宿形式で6泊7日のコースになっていたりして、「知るとは」とか「感覚とは何か」とかテーマを通して自分を観察する。最終的な答えは提示されない。ただ観察のため、自分を調べていく手がかりとして問いが投げかけられる。

 

門外漢だが、ソクラテス流だと思った。林竹二の考え方と重なる。問いによって、自分自身を疎外する思い込みを破綻させていく。ただ話し合いをすればいいのではない。そこには本当にそれはそうなのか、実際はどうなっているのかという、当たり前で済ませていることを観察し、ゼロから吟味させる問いが必要なのだ。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

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6泊7日では、普通の正社員はほとんど休みとれないかもしれない。しかし、人に変化がおきるにはそれぐらいの期間は妥当だと経験的にも思う。日本社会が正社員に休みを与えないのは、人のモードを変えずそのままに固定させる作用があるだろう。

 

日常を離れるというのは、日常を奪うことでもあるけれど、いつもさらされている規範から少し離れたときに、揺らぎが生まれ、内在化された規範を破綻させる生体の働きが働いてくる。

 

徐々にではあっても、本当にこのやり方で変化を起こしていけるのなら、革命的といえるのではないだろうかと思う。瞑想も観察によって変化をもたらす方法なのだけれど、瞑想は個人にとどまりがちだと思う。ところが、コミュニティの一人一人が実生活でおこる問題を通して自分のあり方を観察するということをやっているから、グループ・ダイナミクスも働く。そのときだけのセミナーではなく、日々の生活そのものが観察や気づきの機会となる。

 

僕の実感でも、確かに6泊7日のコースも意味があるだろうけれども、アズワンにいったときに自分に残るのは、実際に自然体な人たちのあり方にふれることのほうが大きいように思う。まだ数回しか行ってないけれど。

 

アズワンのホームページのコースの説明に「成長」とか、「本質」とか書かれているけれど、実際のコース中には本当にそういうものがあるのか、実際のことは知ることができず、感覚を通して捉えたことはどこまでいっても自分の頭のなかでとらえたことでしかないのでは、という徹底した吟味が続けられる。

 

こういう言葉を僕は使わないけれど、わかりやすく書くために便宜的には仕方がないのか。個人的にはそこはちょっともったいないなというか、残念な感じがする。人によってはど真ん中のNGワードだろう。実際はそこからイメージされるものと違うのになあと。