降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

弔い あるいは影として共にあること

amenomorinoさんのブログで寺地はるなさんの文章が紹介されていた。

 

amemori.hateblo.jp

 

寺地さんが物語をなぜ書きたいのかについて。

私はどうして物語を書きたいんやろう、とこれまでずっと考えていたんですけどわからなくて、ただやっぱり誰のためかと問われたら、自分のためだと答えます。現在の自分ではなくて、過去の自分です。子どもの頃ぜんぜん学校に馴染めなくて、毎日のように泣かされて帰ってきて、でも泣いたことが親にばれると「情けない」って怒られるので、目の赤みがひくまでピアノの裏に隠れていた頃の自分です。壁とピアノ(アップライトの)のあいだに60センチぐらいの隙間があったので、入り口に大きめの段ボール箱を置くとかっこうの隠れ場所になったのですね。

ピアノの裏は決して広くはないので、そこでできることは限られていて、だからいつも図書室で借りた本を読んでいました。その頃の私は、大人になっても自分の身に素敵なことなんか、なにひとつ起こらないのだろう、と思っていました。

さっき過去の自分、と書きましたが、私はなんとなくあのピアノの裏に隠れている子どもが今もどこかにいるような気がしていて、だからあの子どもに伝えたいのだと思います。いつかはそこから出てこなくてはならないんだよ、ということを。あの子どもが架空の世界に逃げこむためではなく、胸に携えて生きていくための物語を書きたくて、いつも必死で言葉を探しているのだと思います。

 

印象に残るくだりだったのでFBでシェアしたりした。

 

一点気になるところがあった。

 

ピアノの裏に隠れている子どもに、いつかはそこから出てこなくてはならないんだよ、と伝えたいのだと思います、というところ。

 

そうか、出てこないといけないのか。子どもに出てこないといけないよって伝えるんだ。大人の「わたし」が子どもに? すっと腑に落ちなかった。

 

 

 

先日、僕が影響受けた10の物語を紹介するという催しで紹介したある物語も寺地さんのテーマと通じるところがあり、そこから考えてみた。

 

 

きらめきのサフィール (くもん創作児童文学シリーズ)

きらめきのサフィール (くもん創作児童文学シリーズ)

 

 

 

きらめきのサフィールという物語では、主人公青山ココロはしゃべれない少年。過酷ないじめを受け、両親に疎まれ、ある日何もかも嫌になって家を自転車で飛び出していく。その彼の前に青いきらめきがあらわれ、その青いきらめきの向こうには彼を止まった時を動かすためにあらわれる勇者として待ち受けるサフィールという国があった。

 

あの子どもが架空の世界に逃げこむためではなく、胸に携えて生きていくための物語を書きたくて

 

旅のなかでココロはやさしく慰められてはいかない。むしろ否応なく自分の醜さや弱さに直面させられ、そして「自分」ではなく、「他者」の痛みを引き受けていく。時が動きだすのを待ち望む人々の痛み。ココロを先に進ませるために犠牲になり死んでいく人たちの痛み。そして敵である闇自体もまた、痛みをココロの代わりに引き受けていたために現れていたことがわかってくる。

 

サフィールに来る前の彼は誰も攻撃しなかったが、ただの被害者だった。全てを感じないようにしようとしていた。苦しいから「自分」を殺そうとしていた。

 

彼が救われ、立ち向かえるようになったのは、他者の痛みを引き受けていったからだ。それが自分だけの痛みである限りは、痛みに向き合うことはできない。究極的なところで、自意識が自分のために大きな苦しみに耐えることはできない。

 

他者の痛みとともにあるとき、自意識が自分のためには耐えきれない苦しみに耐えることができる。自分のためにはある程度以上強くなれない。耐えられるようにならない。

 

それは過去の幽霊でしかない自意識の構造の自然な帰着ともいえるし、大きな苦しみのなかにありながらもなお生きていく際の工夫でもあると思える。

 

ココロは闇の魔王を倒し、光の王子に出会う。

 

光の王子は目を覚ましてココロに問う。あなたはだれ?と。

 

ココロは答える。

 

僕はきみの影さ。

(じゃあ、ぼくは?)

きみは光だ。起きてごらん。

きみが起きると朝が始まる。

時が始まる。

 

 

ココロは、自分が主人公であることを降りているのだ。冒険をしてきたのは全て自分であり、光の王子はただ寝ていただけ。しかし、ココロは認識した。自分の本体はその光の王子なのだと。自分は影にすぎない。その反映にすぎないのだと。

 

そして寺地さんに戻る。

 

私はなんとなくあのピアノの裏に隠れている子どもが今もどこかにいるような気がしていて、だからあの子どもに伝えたいのだと思います。 

 

子どもはいる。変わらずにいるだろうと思う。それがきらめきのサフィールでの光の王子に相当すると考える。それはそれ自体として変わろうとすることができない。何かに働きかけることもできない。それができるのは影のみ。光の反映として現れたものがこの現実の世界で動くこと、働きかけることができる。

 

至極勝手な解釈だけれど、僕はこう思う。

 

寺地さんがその子どもに伝えたいと思うのは、その子どもが自分の本体であるということが直覚されているため。ピアノの裏で泣いている状態は大人になった現在の状態でもそうなのだ。そして放っておけばその状態のままだ。変える必要がある。

 

子どもに伝える、というのは、大人の自分に伝えるということだと思う。大人の自分の心の奥底におとしこめるものを自分自身でつくる。それによって子どもは救われる。動き出すことができる。そう直覚されているのだと思う。

 

寺地さんの「出てこなくてはならない」とは、実態は子どもへの通告ではなく、大人である自分自身に課すもの。そこが少し逆転して書かれているように思える。

 

子どもを出てこれるようにすること。子どもは変わらないのだ。影としての大人の自分がしかるべきありかたでその苦しみを終わらせることができる。どんなときも共にあるということによって。どんなときも見捨てないということによって。

 

そしてそれは自意識が本来の痛みを取り戻したということでもある。自意識は、自意識にとって他者であるものの苦しみを終わらせるために生まれてきた。苦しみは他者のものとしてある。その本来のありかたに戻る。

 

その時、自意識は主人公から降りている。「子ども」を本体と認識し、その苦しみを救うこと、守ることが自身の役割であり、「子ども」が救われることによって、その反映である自身が救われるということがわかる。

 

自意識は影、亡霊にすぎない。それが理解されれば、もはや自分の惨めさに苦しむことはない。自分の価値をあげる必要もない。自身はただの反映であり、本来的なものは既にある。