父が耳が遠くなったのでテレビの音が大きいから、夜はわたしは2階に上がってるんよ、と言って電話で母は笑った。
嫌な感じは別にしなかったけど、なんで笑っているんだろうと思った。
強がりなのか、本当に単にその状況が面白いのか。
この間帰ったときは、テレビは普通の音だったと思ったけれど、一つ一つ、お別れしていくことなんだなと思った。
不意な別れがあるときも、一方でその感じを知っていて、そうなることを知っていたように感じるのはなぜなのだろう。
持っていたものがだんだんと離れていくから、変わっていく。
限界を受け入れられないのはやさしくない。いろんなものが組み合わさっていて、父というイメージになっていても、イメージを構成する一本一本の繊維はただの繊維であるのだから、そこに浮かび上がる絵柄が実体としてあるわけじゃないと思う。
だとしたら、子どものころ、ふと父がやってくれたことというのはなんだったろうと思う。
それは多分、響きを伝えるようなものなのだという気がする。響きそれ自体がどこかから父に伝わっていて、それがいいなと思ったら同じ状況をつくってその響きを伝えるのだ。