降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

七墓めぐりに 

陸奥賢さんと手塚夏子さんの七墓めぐりに参加。

 

無縁仏を祀った七墓のほとんどは現存せず、墓跡のほうが多いけれどそのほうが面白い、と陸奥さん。その場所の現在の姿と歴史の変遷を辿るとき、たとえばその場所がなぜ整理され更地にされたのか、そこを支配する力の動きの容赦のなさは現存しないということによって、かえって生々しくリアルだった。

 

現在のきらびやかな光に覆い尽くされ、見えなくされた陰影は生の不条理さに対する共感を人から奪い、さらなる生きづらさと強迫を生み出していると思う。

 

生き物も空も海も隙間なくどこもかも輝いているような絵が、今の世間の基準だと僕は思う。口にしてそれを言うとそんな馬鹿なと否定するかもしれないけれど、意識はないが結局イメージしている実質はそうだなと。

 

永遠の昼の幻想をつくって、その高揚をガソリンにしているけれど、一方ですり減っていっている。あるとき薬は効かなくなる。

 

順当に生命力を増すというのは、微生物を培養していくようなものだと思う。苦しい自力ではなく、微生物の力自体を力にし、それが自律的に育っていくような体制にシフトしていく。

 

昼に七墓めぐりしたあと、夜は第2部となって、振り返りと幕府によって遺体をさらに磔にされた大塩平八郎が描かれた資料なども紹介してもらった。

 

そして、ダンス、踊りについての話しもきく。
以前見た演劇を思い出していた。踊りが生まれるところについて。

 

ネットで知り合った自殺願望がある4人が自殺を実行しようとする。自殺をすることは一応決めたが、迷いや葛藤もある。物語が進む中で、4人は別の若者のグループと出会う。そしてそのやりとりのなかで、4人は既に自殺していて死んでいたという事実が判明する。

 

4人は死んでなお自殺遂行のプロセスを繰り返そうとしているさまよう魂だった。そして最後に若者と4人を含めた全員で鬼ごっこが行われた。それが彼らへの弔いだった。4人はその本気の鬼ごっこのなかで消えていなくなっていく。

 

話しをきいていて、僕は踊りが生まれるところとは、一つは行き場のなさなのではないかと思った。「主体」としての統制や統合性が宿命的に伴う犠牲。統制や統合性というものは、本来的にない。だがそれを「無理やり」つくって生きている。その犠牲。

 

村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の世界で、一角獣はそこに作られた秩序の矛盾の帳尻を合わせるために毎冬焼かれ殺されている。主人公は自分の影を完全に殺すことによって、その無理くりの世界に一体化しようとしている。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

 

 

声をもたない一角獣が焼かれるその苦しみが踊りの動きの発生源であり、原動力なのではないかと思う。その意味では誰かが「踊れない」ということはないのではないか。どのようにであれ、その苦しみは現れるし、踊りと思っていなくてもいうことなすこと、動かないということさえ含めて踊りなのだと思う。

 

ところで自意識は、プロセスの自然な発露や展開を邪魔する側面がある。「私がやる」という意識や他人にとって自分のある行動が「私の選択」であるとみなされるとき、緊張や恐怖が生まれ、プロセスが宙釣りにされる。

 

自意識を評価する価値基準は内在化し、強く刻み込まれているので自意識はその価値基準に断罪される危険をなかなか冒せない。たとえ冒したとしても緊張しているからプロセスが自然に展開しない。

 

しかしそのような問題は状況の設定、状況のデザインによって調整することができると思う。行動の意味あいを規定させず、曖昧にするデザイン。それによって自意識の干渉をおさえられる。

 

大学時代の友人が詩を書くときの工夫は、ノートや原稿用紙などではなく、どうでもいい広告の裏に書くというものだった。ノートや原稿用紙は緊張してでてこない。「別に詩なんか書いてないよ」というリアリティに設定するために、どうでもいい広告を使う。内在化した価値基準はがんじがらめで不自由でも、間隙を縫うことはできる。