読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

オズの魔法使い 世界と自分を分離させるペテンを破綻させる

デニム 「ランスロットさんも、怖いと思うことがあるんですか?」

 

聖騎士ランスロット 「そりゃ、もちろんだよ。戦いのたびに震えがくるぐらいだ。だけどね、死ぬわけにはいかない、そう思えば、怖さなんてなんとかなるもんさ。」

 

デニム 「死ぬわけにはいかないか…。僕は革命のためなら死んでもいいと思っている…。へんですね。そう思っているのにふと気づくと、死の恐怖におびえてる自分がいるなんて…。」

 

聖騎士ランスロット「命を賭けるということと死ぬということは全然違うことだ。

 

・・このオルゴールは死んだ妻の形見だ…。もう4~5年前になるかな。帝国と戦う前のことだ。帝国に追われ、各地を放浪しているうちに、妻は病気にかかってね。そのまま逝ってしまった…。幾度となく妻のあとを追って死のうと考えたことがある。戦いの前にはとくにそうだった。

 

でもね…。そのたびにこのオルゴールが教えてくれる。命という名の責任の重さをね…。死んではいけない、自分のまいた種の成長を見届けなければならないってね…。」

 

      『タクティクスオウガ』(Tactics Ogre: Let Us Cling Together) 

 

守るもの、あるいはつなぐものが自分と共にあり明確であるのと、一見理想的でも曖昧な目標に向かおうとすることは真逆とも言っていいかもしれないと思う。

 

曖昧な目標とは自分と関わりのない「すべきこと」「あるべきこと」であって、それに従ったところで持続性も元気もでない。自分に軸がおけない精神的な奴隷の状態。力の焦点は奪われ、拡散していく。

 

ある人が自分のお母さんの話しをしていて、お母さんは今の援助職につくまでふと死んでしまいたいと思っていたそうだけれど、今はそのように思う人たちが相手なので、自分が「死ぬわけにはいかない」となったそうだ。

 

「〜するわけにはいかない」「〜させるわけにはいかない」には強い力があって、そのなかには動いていく世界の中心にあらかじめ自分が含まれている。世界と自分が同時にある。

 

世界と自分を分離させること、分離させる捉え方が力を失わせる。それは多くの場合、考え方の前提として含まれているので気づきにくい。けれど、気づかず受け入れればそのことによって力は奪われる。あらかじめ主体が奪われる。

 

「私には〜がないから〜を手に入れるために何かをしなければならない」は、あらかじめ答えと行き方を奪った考え方。(「〜」には抽象的な性質が入る)これでは先に行けない。(こう言いながらできる人は、多分思考とやっていることが乖離しているから実際には考え方に沿ってやっていないと思う。)

 

「既にある」「既にやっている」そこからしか始まらない。ないものが自分に備わるように、悪戦苦闘してもないものはない。現実を探り、確かめることによってしかちいさな萌芽は見つからない。

 

オズの魔法使い」で魔法の国の王は実は無力で、ペテンで自分の安全と国の均衡を保っている。物語は人間のありようを反映するもの。これは人間が人間に(自分が自分に)ペテンにかけているということを示唆するものではないかなと思う。

 

 

ドロシーは西の悪い魔女に奴隷にされるが銀の靴を盗まれて怒り、「バケツで水をかける」ことによって解放される。これは水をかけられて正気に戻ることを表していると思う。

 

ケストナーの『点子ちゃんとアントン』の映画のほう(原作のなかでどうだったかは忘れた。)で、母親がそこにある生の現実(娘)のありようをちっとも見ず、自分の頭のなかの世界に行ってしまっているので、点子ちゃんはプールに母親を落とす。水の冷たさ。濡れ鼠でお洒落な衣装も髪も台無し。母親はその点子ちゃんの「ショック療法」で閉じ込められた幻想から目が覚める。怒りではなく「あれ?なんだったのかな?」という母親の顔が印象的だった。)

 

点子ちゃんとアントン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

点子ちゃんとアントン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

 

 

ドロシーは、カンザスに帰る手段である銀の靴を「既にもっている」。かかしと木こりとライオンも既に自分がないと思っていたものをもっていた。(が、納得できないのでオズの作りもので象徴的に達成する。)

 

オズの魔法使いは、原作も読んだけれどリアルで変に角がとられてないのが好きだった。ドロシーがかかしに反論されて「それはあなたに脳みそがないからよ!」と身も蓋もないことを言ったり、ライオンがドロシーたちが眠った夜中に(餌をとるために)姿を消すという描写があるところとか。

 

全てペテンでした、だと弛緩した退屈な話しになりそうなのに、退屈でない。

 

それは、ただただ肯定的なメッセージで日常の違和感や歪みを塗りこめるようにしているのではなく、社会が個々人に課していたり、個々人が自分自身へ課し、奴隷となることを許している欺瞞の構造を書き出しているからではないかと思ったりする。

 

飛ばされた家が大地に着くことによって最初の魔女は意識されることもなく、自動的に死ぬ。そこにあらわれた良い魔女がドロシーを危害から守るために施したキスの効果とは、この大地に着くこと、違和感であれ何であれ現実、自分に足をつけたところから始めることによってまとわれ、付随してくる力の効果。

 

次の魔女は、盗まれていることに気づき、正気に戻る体験によって消えてなくなる。それは実体としてはなかったということ。吸血鬼が陽の光のもとで存在できず、鏡(意識)に映らないのと同じ。意識できず見えていないから、働きとして実体化し影響を与えている。吟味され、意識化された場所に持ち出されれば、もはや以前の働きとして成り立たない。

 

今、見えているイメージとしての現実ではなく、自分の手で、身でかたちをなぞったところが現実。そこを根拠にする。確かめ続けるならそれは無駄とならず、積み重なっていく。奴隷となりえている構造を破綻させるものをかたちづくっていくと思う。

 

今週のお題「最近おもしろかった本」