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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

台風なので岸見一郎『嫌われる勇気』を読んだ

読書 🔳マンガ →うしおととら

雨だったのでアドラー心理学を解説した岸見一郎さんの『嫌われる勇気』を読んだ。対話形式で読みやすかった。アドラー本人の書いたものを少し読みたくなった。

 

自己啓発の源流〜」というサブタイトルは、真っ当な内容に対して偏見もたれそうだなと思ったり、逆にこれで自己啓発系にアピールするのが戦略なのかとか色々思った。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

学部のころ、アドラーの補償・過補償の考え方は印象的だった。人間がその劣性を補おうとする力によって、補うにとどまらずむしろ一般的な水準をこえたところに到達するという考え。

 

 

僕は「自己実現」は代償欲求であって、何か失われたもの、欠損しているものを補おうとする生体の力だと思っている。シルヴァスタインの「僕をさがしに」で主人公に欠けがあるように、欠損が動いていく動機となり、自分以外の世界と関わるきっかけになる。

 

 

最も大きな欠損、切実な欠けを補おうとする。生きものはそう動機づけられると思う。同時にその根源的な欠損、苦しみを自分の力や創造で補うことが根源的な喜びだと思う。だからやり続ける。

 

 

そして補いは象徴的に達成される。「僕をさがしに」で主人公は旅でみつけたぴったりとはまるかけらをそっと置いてまた旅に出かける。かけらを手放すことで彼の落ち着かなさ、バランスの崩れがまた彼にやってくるのだが、彼の心はもうそこにこだわらなくてもよくなっている。

 

 

欠損が世界との関わりをもたらし、自分を生きてやっていかせる動機となる。生きることは、変わりゆく環境に対して常にバランスを取り戻そうとすることともいえる。それは生体の自動的な働きだ。そして埋めきれない欠損という終わりのないバランスの崩れが生き続ける力を体から派生させる。

 

 

自意識の都合で引き出せる力は僅かだが、生体自体が貸してくれる力は大きい。その大きな力をかりて生きていく。生体が根源的な苦しみであると認知することにのっかるとその力を使える。

 

 

あるとき「心はへその緒がとられたときの空虚感に由来する」という言葉を聞いたときは色々な意味で腑に落ちた。自意識そのものの性質が亡霊のようだと思っていたこと、そして生き続けるという終わりのない道行に対しては、その埋められない空虚感こそが必要なのではないかということに対して。

 

自意識自体はゴーストなのだけど、自意識は自分が生命そのものだとか思いたがる。いつも高揚と興奮を欲している。今感じている苦しみをどこかへやり、麻痺させるために。自意識は手軽に苦しみと幸せの帳尻を合わせようとするのだけど、反動はやってくる。反動が生体の回復の過程だから。

 

後に続かない手軽さに追い立てられること、強い高揚や興奮が伴わないとやってられないこと。既にそれは症状であるといえるだろうと思う。

 

亡霊が自意識の本質なのであるけれど、それを暴走状態にさせないために弔いがいる。麻痺に麻痺を重ねようとするのではなく、既に苦しみがあることを認める。そこから弔いがはじまる。


自意識がなくなればいいというのではなく、自意識には自意識の機能がある。強烈なコントロールの力だ。だが依存しすぎると周りとの関係性を失い一念だけの亡霊化、症状化する。

 

うしおととら」というマンガで、主人公の蒼月潮は獣の槍という武器をもっている。

 

うしおととら 文庫版 コミック 全19巻完結セット (小学館文庫)

うしおととら 文庫版 コミック 全19巻完結セット (小学館文庫)

 

 

 

獣の槍はまさに自我、自意識だと思う。

 

妖怪を倒すため最強の槍を作ろうとしている鍛冶師の妹は、ある日自分が溶鉱炉に身を投げ、生贄になることによって槍ができると直覚する。鍛冶師は、愛する妹をそのように失った壮絶な苦しみによって鬼となり、やがて自分が自分の打つ槍と一体化し、獣の槍となる。

 

あらゆる妖怪も通じる武器だが、槍を使用する際には槍と自分の魂をつなげ、一体化する必要がある。しかし槍を使用しすぎると、主人公は魂を削られて妖怪を殺す一念しかない獣ととなってしまう。

 

体と自意識は別。自意識は自意識であって、もともと亡霊なんだから分を知り、いらないことや過剰なことをしないのが大事だと思う。亡霊が主張する「正義」や「成長」、「発展」や「理想に邁進」も距離をもたないとこじれる。そもそも亡霊なのだから。

 

もともとある苦しみを感じ取りケアし、ただ弔っていく。それがやるべきことだし、それで十分だ。どこにもいかないし、どこにもいけない。しかし、なお十分なことができるだろうと思う。