降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

道中のデザイン 『モモ』と『漢方水先案内』

「なあ、モモ」と彼はたとえばこんな風にはじめます。

 「とっても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

 彼はしばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。

 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」

 ここで彼はしばらく考えこみます。それからやおらさきをつづけます。

 「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな…つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

 またひとやすみして、考え込み、それから、

 「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

 そしてまたまた長い休みをとってから、

 「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」

 彼はひとりうなずいて、こうむすびます。

 「これがだいじなんだ。」       ミヒャエル・エンデ『モモ』

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

何かの目的を設定し、その目的達成に到達するための手段を考える。ここまでは自然な考えかもしれないけれど、次にその手段が問題になる。その手段が辛すぎたり、つまらなかったり、疲弊するものだったらどうだろう。それは仕方がないだろうか。

 

現実は思い通りにいくわけではないけれど、僕は基本的にはそれは仕方がないとは考えないほうがいいと思っている。理由の一つは生きものにとって死は突然訪れるものであるから、辛い手段の遂行中に死んだら何をやっているのかわからないから。

 

現実が思い通りにいかないからこそ、手段にかける時間それ自体を豊かにしたり、充実したものにしようと考える。自給や家庭菜園の畑の発想がこちらだ。遊びであり仕事、実験であり本番、手段であり目的。

 

辛い時間をお金で買った時間で埋め合わせるのではなく、そこに関わる全ての時間の質を上げる。心のエネルギーが満ちていくことのほうを中心にそえ、目的に向かう過程、プロセスをデザインする。

 

豊かなプロセスをすすめると結果が派生する。死は突然訪れるけれど、どの時間も豊かな道中にいるならば、それでいいのではないかと僕は思う。

 

というか、つまるところそれしかできないのではないだろうか。死のタイミングまでこうでなければならないと決めて生きることのほうが無理があって、生きものとしては身の丈をこえたことでもあって、結局辛いのではないだろうか。

 

生きることを自分に取り戻すことは、何かをした後にようやくたどり着くのではなく、道中のデザインによって可能となる。どうせやらなければいけないこと、向き合わなければいけないことがある。それは自由にはならない。しかしどのように行くかには自由がある。

 

先日阪大の森栗茂一さんの話しを聞いていた時に印象に残った言葉がある。森栗さんは、まちづくりに成功はないという。一時的に良い状態になっても悪くなる。様々な要因でおかしくなってくればなおす。それが永遠に続く。

 

完全な平和もユートピアにも到達できない。仮にそんなものがあったとしても、そこに到達したことによって人はそれを維持する能力を失うだろうと思う。

 

豊かさは道中にある。出来上がった教科書から学ぶより、自分たちで教科書をつくるほうが豊かな学びがおこる。健全さもまた維持されるだろう。あらかじめの健全さがあるのではなく、いつも、いつまでも歪みがあり、そこに向き合うときにはじめて健全さが生まれるのではないかと思う。

 

まったく歪みのない状態、過不足なくバランスのとれた状態は病気から最も遠い状態ですが、そこでじっと留まっているのは、実は死んでいるのと同じです。 「歪んで戻って、歪んで戻って」を繰り返していること自体が生命であり人間である、ということなのです。東洋医学は「揺るぎない健康」を目指したものではなく、「揺らぐ生命」から出発するものだったのです。               津田 篤太郎『漢方水先案内』

 

漢方水先案内: 医学の東へ (シリーズケアをひらく)

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