降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ピンボール台としての心

加藤わこさんと月1でやっている催し<たそがれトークバック>、今回は若いころの写真をもってきて語るというもの。

 

世代というのはグラデーション的なところもあるのかもしれないけれど、割と一つ一つがはっきり分離している層の重なりのように感じる。感覚の基盤が本当に違うなという実感があった。

 

あと、層状なものは層が現れるようにアプローチするのがいいなと思った。日常では普通は現在が中心になるので、過去の1点は現在の1点にと縦に線ができる。でも横の層を感じようとするなら、記憶が縦でなく横につながって広がっていくように状況や媒体を設定する必要があるのだなと思った。

 

今回はそれぞれの年代の人が複数人いたので、横への広がりがあって、誰かが言った一つの出来事がふくらみながら横へいく。人数は8人設定でちょっと多いかなとも思ったけれど、多めでよかったかもしれない。

 

あと、同じ世代でも自営業なのか、会社員なのかでまるで経験は違うようで、自営の人にとっては、バブルも全然実感なく、バブルの世代と言われてもはてなという感じもあるようだ。

 

自分をふりかえってみると僕は中学校後半と高校はほぼいってないので、同年代でも学校的な文化の話しはピンとこない。人の話しを聞いていると一つの時代は中学や高校で経験されるところが結構大きいように感じる。

 

大学に入るまではほとんど一人でいたので、周りと時代の空気や文化を同時に感じ合うというようなことはなかった。特に高校という文化はすっぽり抜けている。中学校出てから今までというのは、そんなにいるところが変わらない。

 

大学に入ってからも人は色々変わっていくかもしれないけれど、もしかしたら生きものとしては大学に入る頃には大体成り上がっていて、もうあんまり外枠はダイナミックに変わらないんじゃないかと思ったりする。

 

人は出来事をどのように受け取るのかと想像するとき、自分というのはピンボールのようなものではないかとも思う。記憶と経験によって形作られたピンボール台のなかで跳ねている。ピンボールは台のなかで壁面やそこにつくられた何かにぶつかる時に何かを感じる。

 

記憶と経験によってつくられたピンボール台の構造のあり方が、ある経験をどう受け取るかを決めるのではと思う。だから頭はある程度一定で型にはまった受け取り方や反応をする。

 

どんな刺激もいつも同じではないので、いつも異なる刺激に対していつも違う反応をするというのは、生き物にとっては過負担だろう。抽象化し、同じだと括ることによってやっていく。

 

生き物は止まった世界のなかに生きていると思う。基本、同じことを繰り返すようにしかできていない。生きることは変わり続けることとも言えるが、どちらかというと保持すること、維持することが主だ。

 

種という括りからみると、生きものは個体としては実験体であって、サンプルであると思う。ある程度の同一性を柱にしながら、同時に全てズレていて、グラデーションを構成している。

 

環境が変わった時、生きていくために有用だったある強みが弱みになる場合もある。その時はズレとして現れ、同一種でありながら別の生存戦略をとっていた「弱い」個体が生き残り、次の主流となる。あるいは次の主流へのつなぎ手になるのではと思う。

 

次といっても次もその繁栄が長いか短いかはわからないけれど。自然はどこまでも他者であって、別に生きものを育てようとしていない。

 

サンプルであり、実験体である個々の個体は「寿命」を全うすることも前提には設計されていない。あらゆる世代で死ぬのが普通であり、そのことがそのままサンプルの機能であり宿命でもある。

 

個体が「間違った学習」「間違った理解」をしても、それはズレという多様性であって、もしそれが不適応なのであれば淘汰されるということで種としては問題ない。その個体の生のなかで、一旦インプットされた感じ方、反応の仕方を変えるのは多分ロスが多すぎるのだと思う。

 

畑の作物は、成長が悪いもののほうが早く花をつける。さっさと世代交代して次の可能性にかけるのだ。

 

ところが人はそういうような生きものの普通のありように反逆している。あらゆる危険性を取り除き、体自体の限界まで無理やり生きようとする。しかし、生きものとしての体は自然に人間についていくわけではない。

 

一旦インプットされた受け取り方、反応の仕方を変えるには、意識的、文化的なアプローチが必要だ。放っておいてもピンボール台は変わらない。