降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

過去に属するものとしての正しさ

まわしよみ新聞の考案者の陸奥賢さんがフェイスブックの投稿で、人間の二足歩行は実は失敗として生まれていて、 しかしその失敗のおかげで逆に少ないエネルギー消費で移動が可能になったという事例を出されていた。
 
何かに対して「正しい」ことというのは一つしかないが、「失敗」は一つではなく無限にあって、そのなかには「正しい」ことを超えることもあるかもしれないという。
 

生物学的には人類の二足歩行は進化ではなくて失敗なんやそうで。あれは歩行ではなくて、じつは倒れている。倒れそうになるから足が出て、結果として前に進む。四足歩行の動物はちゃんと安定的に体重移動させるのでエネルギーが必要で、だから行動範囲も狭い。...

Posted by 陸奥 賢 on 2015年4月14日
僕は本も読まないのに、勝手に文化とは何か、進化とは何かとか位置づけたりしている。馬鹿な話しだけれど、しかしそういうことを恥ずかしげもなくもっと誰もがああだこうだと言ってもいいんじゃないかとも思っている。
 
二足歩行と四足歩行については、前に興味深いお話しをきいて、それが腑に落ちるところが多かったので、それを考えるときの基盤にしている。
 
人間が四つん這いになると、ある種の緊張感が張り詰める感じがあると思うが、2足の時と4つ足のときは気分や意識的な状態が変わるだけでなく、同じ人でも四つん這いのほうが握力が強くなったり、視覚的に曖昧なものをはっきり読み取る力が増す。
 
意識状態が変わるというのは、たとえば親指と人差指で輪をつくるとき、その輪を通して先をみる意識になりやすいのは4つ足でないときだという。四つん這いになったとき、その輪をみても親指と人差指がつくる輪それ自体に意識がいき、その輪を覗いて先をみるという意識になりにくい。
 
4つ足のときは、動物的な現実の合理性が働いて、意識状態も体の状態もその合理性の方向に焦点化され、調整される。しかし、四つん這いのときは、胸に空気をいれるとか、歌を歌うような呼吸法はできない。焦点が決まっているから、体をその焦点、合理性から離すことができない。
 
その焦点、合理性を脱臼させ、外す。それが二足歩行だという。演劇をする役者が舞台の上で一番扱いに困るのは両腕のおさまりどころだという。その時々、どのようにしていたら一番自然かがわからない。それもそのはず、もともと4つ足なのだから自然などないのだ。2つ足である限り、どのようにしても不自然。
 
自由というのはこのように生まれているという。つまり、もともとあった合理性、焦点が決まっていた力の流れをそこから外す。そのことによって行き場のない力の流れ、おさまりどころのない力や意識の流れが生まれる。その力を転用することによって自由が生まれる。
 
自由というものは、別に高尚な根拠があるわけでもなく、逆に動物的合理性に従っていたところで別に幸せになるわけでもない。この考え方は、今まで聞いたもので最もバランスのとれたもので、色々なことを説明できる考え方だった。
 
僕は「自然」万能主義ではない。「自然」が最も調和がとれていて、健康的であり、「自然」のままに生きることが目指すべきことであるとか思わない。というのも、まずその時言っている「自然」というのが結局は人間が考えている「自然」であって、括弧つきの自然でしかないからだ。そしてあらかじめの調和などどこにもない。あらかじめの調和を設定することは、結局抑圧につながると思っている。
 
括弧なしの自然は、えげつないありのままであって、人が命を懇願する人を殺すのも自然。核爆弾をつくるのも自然だと思う。そもそもその可能性がなければそういうことは起きないのだから。そのままの自然は、生きものの小ささにとっては耐え難い不条理でもあって、人間の先祖は明らかにそんなのは嫌だったんだろうと思う。
 
生きものは海で生まれた。しかし、痛みの感覚まで獲得しながらより過酷な陸へ上がった。更には空を飛ぶものも出てきた。水は上から下へ行くのに、生きものは逆。下から上へ。逆へ行く。魚は流れに頭を向け、流されないようにその位置をキープする。
 
人間以外の動物は、自然に対して心から恭順しているだろうか。全くそうは思えない。自然のままに従って生きようとしているのだったら、海からわざわざ出る気概があるかと思う。自然に従っているだけの存在であれば、海で不具合がおこったときそのまま素直に淘汰されるだけだろう。
 
生きるためだったら何でもやる。海の外にでも行く。それが生きもののあり方。それはむしろ自然に対して反逆していると理解することができないだろうか。常に変わり続け、全体を均一化しようとする自然の圧力や干渉を跳ね除け、自らの恒常性を維持し続ける。
 
生きものであることの本質は、括弧つきの「自然」、つまり既にある秩序に対する反逆であると思う。植物が酸素をつくりだしたとき、それまでの生物にとって酸素は猛毒だったと聞く。だが酸素は大気に行き渡り新しい環境をつくった。それが次の秩序、「自然」になったわけだ。
 
えげつないありのままの自然があり、そのうえに生きものの反逆がつくった秩序、括弧つきの「自然」がある。生きものは、今ある秩序に対し常に反逆をし続けていくことによって、新しい環境、新しい秩序をつくろうとしている。そこは根本的に人間も他の生きものも変わらないと思う。
 
人間の反逆は、生きものとしての体を持ちながら、その仕組みを脱臼させることによって(無理やりに)比較的大きな自由を得るというもの。しかし方向性のないその自由を好きなだけ行使しても行き着くところに調和などないだろうし、かといってありのままの自然、そして常に更新されていくはずの旧秩序に従ったところで救いが約束されているわけでもない。
 
生きものはこの世界に理由もなく放り出されている。救いというなら、そのこえられなさやどうしようもなさを、こえられないもの、どうしようもないものとして向き合うところにあるのではないかと思う。
 
陸奥さんの文章のなかで、正しさという言葉をながめるとそれは過去に属するものであると思った。何かに対しての正しさ。それはある状態に対する決まったアプローチが予想されたものを導くということなのだろう。
 
その意味では、正しさは未来に対してはない。自分の知らないもの、わからないもの、初めてみるものに対する正しさはない。「正しさ」として推し進められるものの傲慢と暴力性の大きさはそこにあるのだろう。正しいのなら声高に叫ばれる必要もなく正しいだろう。むしろ、今あるものを無視し、推し進めるために正しさという言葉が使われているのだろう。