降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ブログに何を書いたか

ブログを始めたのが去年の9月23日だったようなので、半年ちょっと書いてきたことになる。

 

最初のほうは毎日書いていたが、最近はぼちぼち。特に更新間隔にこだわりはなくなった。

 

同じことを繰り返し書いている。そういうことばっかり考えている。発達障害の気があるからか。冊子『生き残り 回復していくために』を親に見せると「あんた、いつもこんなことを考えているんじゃないんよね? 書こうと思ったら書けるんじゃろ?」というようなことを言われた。

 

そもそもよく読んだなと思ったけれど、その言い方はこんなことを四六時中考えているのが不憫だと思っているのかと思い、話しが面倒になりそうだったので、否定せずにうんと答えた。

 

中学校からフラッシュバックがおこりだして、それへ対応するために人の変化について自分なりに探ってきた。当時は切実だったので、集中力が半端なかったと思うが今は当時ほどではない。

 

自分が変化するためにはどうなったらいいか、どうしたらいいか。しかし、30歳のころそれは自分のみじめさを否定するためにやっていたのだとわかり、がっくりきた。自分は自分に騙されるもんだなと思った。その時からはそんなに前ほど集中してがっと本を読めるとかはなくなった。

 

考えたところで仕方ないと思ったけれど、わざわざやろうとしなくても、自動的に興味が向き、別に追究しようと意識的にやっきになっているわけではないのに考えをすすめていくようになっていた。磁石ができたと思った。頭に勝手にひっついていく。自動操縦モードになった。

 

今は本を読むのがしんどくてなかなか読めないけれど、人が感じていることを聞いたり、事例を知れば考えをすすめられる。頭がいい人の難解な話しや複雑な話しはわからないけれど、自分の身の丈で自分に必要なことは探求していける。そこにあるものをなぞって確かめていける。

 

いつか全くの勘違いだったとわかるかもしれないけれど、意図しようとしまいとそうなるときはそうなるのだからいい。

 

今書いているブログ、特に途中から読み始めた人とか、どういうふうに僕の考えを捉えているんだろうと思うので、単純に考えていることをまとめてみようと思う。どこにこだわるからこういうふうになるのかとか。

 

起点はフラッシュバックの苦痛。電撃のように突然否定的な考えがやってきて打ちのめされる。将来の幸せとか、生きていてよかったという人の姿とか、そういうのはリアリティを持たなかった。そんなものでは割にあわないと思った。何かくれるからとか、そんなのはまるでこの苦痛に対しての補いにならない。

 

欲しいのは、本当の納得だった。誤ったことをしていたけれど、そこに近づくことだけが割にあうものだった。それが動機だったし、これからの動機でもあるだろう。納得が補いになるのではなく、納得がしたい、ということ。ギブアンドテイクは考えの誤りだ。

 

人は変化をおこすとき、一旦それまでの意味や価値から離れる。というか、今持っている価値観、意味づけの仕方が抑圧的に働き、変化を邪魔している。

 

生きものの通常のあり方は、多分、ある型をつくってそれが通用しないところまでいくと、別の型になるというものだと思う。型は物理的といっていいほど、構造化されているようだ。心理症状などが好転するとき、体調が崩れるのは、単に反動というようなことではなく物理構造が変わろうとしているためのようだ。

 

野口整体野口晴哉の『風邪の効用』でもそういう示唆がある。

風邪とは、がちっとかたまった型(それが通常なわけだが)の状態に異常を起こし、それによって変化させ整えるもの。風邪は治すものではなく、経過させるものという考え。経過させるということは、自然にいいように整えさせるということ。

 

風邪の効用 (ちくま文庫)

風邪の効用 (ちくま文庫)

 

 

面白いのはナイチンゲールも同じような指摘をしていることだ。ナイチンゲールは西洋の人なのに、病気の理解に関しては東洋的だったのが意外だった。

 

「病気とは何か?病気は健康を妨げている条件を除去しようとする自然の試みである。われわれはその自然の試みを援助しなければならない。病気というものは、いわば形容詞であって、実体をもつ名詞ではない。」

「つまり病気とは、毒されたり、衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力のあらわれであり、それは何週間も何ヶ月も、時には何年も前から気づかれずに始まっていて、このように進んできた以前からの過程の、そのときどきの結果として現れたのが病気という現象なのである。」

薄井坦子編『ナイチンゲール言葉集』現代社

 

 

ナイチンゲール言葉集―看護への遺産 (現代社白鳳選書 (16))

ナイチンゲール言葉集―看護への遺産 (現代社白鳳選書 (16))

 

 

 

自意識は物理的な殻、構造をもっている。

 

僕は心が何であるか、無意識が何であるかを探求しない。また自然が何であるかも探求しない。わからないからだ。僕のたどり着いたところ、結局問題は自意識の構造、自意識の弊害なのであって、また同時にアプローチできるのも自意識だからだ。

 

心も無意識も自然もアプローチなどできない。やったところで本当にそのアプローチがきいたのかどうかもわからない。それらは自律的だ。そして自己調整機能をもっている。自意識が最も役に立つのは、それらを「邪魔をしない」ときだ。

 

余計なことをするのが自意識。構造化された「わたし」。その余計な干渉をなくすことは、自意識による自意識に対するアプローチによってもできる可能性がある。意味のあるのはそこだと思っている。無意識や自然にアプローチしようとしたり、完全に理解してコントロールしようとするのは土台無理だと思う。

 

目を開ける。そして目をつむる。脳科学でいろいろ説明はできるかもしれないが、これが本当にどうしてできるのか、いえるだろうか? 神経伝達物質神経伝達物質であることができる理由は? 

 

飛行機が飛ぶのは誰もが知っている。だけれども飛ぶ理屈は知らない人もいる。そして飛ぶ理屈を知らなくても飛行機に乗れる人を馬鹿にする人がいるかもしれないけれど、理解している水準の違いはあっても、本当のことはわからない。何で物質が物質であるのか、重力とは何か。なぜ重力ができるのか。誰も同じだ。わからない。今起こっていることの完全な説明などできない。

 

うまくいくことがなぜうまくいくのか、つまるところを「本当に」知る必要はない。それが正しい距離だと思う。結論づけるのは傲慢だし、そうやってしまうと実際のパフォーマンスが落ちるだろう。

 

うまくいかなくなるのがなぜかは知ることができるし、理由を確かめられればそうしないようにすることができる。そして、余計なことをしないように注意深くあることもできる。それでいい。それで十分だし、それしかできないのだ。

 

問題は自意識。自意識を対象とし、自意識にアプローチする。別の言い方をすれば、理解可能なところにアプローチする。

 

そのなかでも、僕は、価値の持ち方、言葉の問題を取り扱う。自然は自律的に体を良いほうに持って行こうとする、というのはそうだろうと認めている。そのとき邪魔をするもののうち、価値、言葉を扱う。

 

人は、より健康な状態のほうが変化、回復をおこしやすい。自意識が変化させるのではなく、体にもともとある自律性が、生きものとしての保守性や自意識の堅固な縛りの間隙を縫い、変化がおこる。自律性に働いてもらう準備を粛々と整えるのが自意識の役割。

 

人が言葉によって強迫的にさせられているとき、危機モードになった体は自律性が間隙を縫うような余裕を与えない。だから言葉による強迫を取り除く試みをしている。言葉による強迫はいわゆる「ネガティブな」言葉や考え方の影響に思われるかもしれないが、実際のところは、ポジティブな価値観のほうが人を強迫的にさせる。

 

幸せになる(→ならなければいけない。不幸になってはいけない)、意義のあることをする(→無駄をしてはいけない)など、何でもそうだ。「あるべき」なものは、どのように肯定的にいったとしてもネガティブだ。邪魔をし、体をひきつらせ、停滞させる。

 

僕が無意味さの取り戻しとか、人は何処にも行く必要がないし、実際どこにも行かないとか言うのは、確かめれば実際にそうだと思うのに加え、そうした「ポジティブ」な価値観、考えを破綻させるところにある。ニュートラルにもどろうとしている。

 

ただ、そのニュートラルは人参を鼻の先に置かれて走らされるような現代においては、「ネガティブ」と受け取られる。「夢」を否定しているようにも受け取られる。ポジティブの水準が一段高められているから、ニュートラルでも「ネガティブ」になってしまう。

 

アメリカンドリームを達成する必要はなくて、自分の必要をただ満たせばいい。僕は「成長」という言葉を使わず「回復」というし、「自己実現」と言わず「弔い」という。その力動のエッセンスをより正確に言おうとするとそうなった。僕以外に「弔い」とか言っている人は知らない。(本を読まないのもあるけど。)

 

興奮し、高揚し、イメージに刺激され、肩の力が入るようなものは、嘘なのだ。それは将来のためでもなく、今ここで何かを抑圧するために使われている。

 

そのようにして僕は、どんどんと世に流通する言葉や考え方を言い換えている。意味がなくても、何のお金にならなくても、適当なことを言ってだまくらかしてきた世に対して、一つ一つ変な言葉や考えを棄却していって、一人で勝手に意趣返ししている。気晴らしというか。

 

オーウェルの「1984年」では、歴史修正主義者たちが主権を握り、過去の歴史の資料で都合の悪いものは書き換え、廃棄する。彼らは権力を背景にしたそのみみっちい行為をコレクティング・ミステイクス(correcting mistakes 間違いを正す)と大上段に構えてよんでいた。それにちなんで、僕の気晴らしもコレクティング・ミステイクスとよぶことにしている。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)