降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自分に必要な贅沢を与えること 自由の自給自足

三重のアズワンに行く前はちょうどよく調子悪くなっていて、食べるものも刺激の強いものとか、甘いものとかをたくさんとらないと時間が持たない感じになっていた。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

これはアディクションだなあと思いつつ、三重で5泊もして帰るとそれがとれていて、強迫的に満腹にならなくても、強い刺激のものを毎回とらなくても普通になった。

 

外の世界は緊張するから、そのおかげであまり苦痛なく意識もせず日常の依存の離脱症状?をこえられる。

 

京都に帰ってよくなったものもあったけれど、アトピーが関節やら目の周りやらに出てきていて、それは行く前より悪くなった。こちらの対策はよくわからない。どのタイミングで出るのか、1年ぐらいでないときもある。

 

アズワンで自由とは何かというのをテーマにして吟味する時間があったけれど、僕は、自由とは自らに由来するものというだけの位置づけがちょうどいいと思った。いい悪いではなく、ただ自らに由来するもの。

 

自由にしたら他者の自由の侵害はどうなるのかとか、権利とか言い出すとややこしい。それにそういうときは、自由とかいうもってまわった言葉を使わずにやりたい放題とは何かについて議論すればいいのではないかと思う。

 

まさに自分に必要なものは何か。それを知る。そして必要なものが必要なだけある。それでいいのではないかと思う。それ以上のものは持て余すだけで、苦とトラブルが増える。

 

僕は寝る時は足をのばしたいが、全部のばそうとして、どこかあたってのばせないと気持ち悪い。のばせるなら、後の余裕が1cmだろうと1mだろうと関係ない。だけれど、もし1mmでものばせないのなら、のびのび感はなくなる。また1m以上の余裕があっても意味がないのにそれが自分のために確保されるなら、他者にシェアできるものを必要以上に奪っているわけだ。

 

重要なのは、自分には何が必要なのか、どれくらい必要なのかだと思う。

 

自らに由来するものとは、生きものであり、かつ個別的存在であるこの自分が世界のなかで生きていくために内から発せられるシグナル。

 

そしてそれを自分の周囲や世界に対して過度の暴力性、侵害性をもつことなく遂行するための工夫をする。自意識の役割とはシグナルを現実の世界とつなぐこと。通路をつくり、流れるようにすること。

 

自給自足とかいうと倹約とか自然志向とか貧乏とか色々とイメージがあると思うけれど、なぜやるのかというと、自分に必要なものを必要な分だけのびのびと与えるためだと思う。のびのびできるようにするためにやる。

 

今やっている畑の実習の講座は、畑で作物を育てられるようになるということを通して、自分に必要なものを手探りで探り出し、それを必要なだけぴったりと自分に与えるエクササイズで、土や天気や作物の現実を吟味し工夫の力をつけるものだと思っている。野菜づくりは狩りだ。

 

自分に必要なものを必要なだけ与えることが結局は一番の贅沢ではないかと思っている。まず必要なものが何かを発見するにも野生の力を取り戻すことがいるけれど、必要なものをちょっとだけ減らされた状態で与えられると、その体験の意味がなくなる場合がある。その体験が必要なのに、体験ができないので次に行けない。その停滞が生きることの苦しみではないかとも思う。

 

人が育つとき、あるいは変わるときには贅沢な体験を経なければいけないような気がする。けちっても仕方がない。そして、そこには贅沢な投資も必要なのだと思う。そこをギブアンドテイクで考えると誤る。けちることで逆に全てがロスになる。

 

今日は畑に参加者のお子さんも来ていてみみずと遊んでいた。そして帰りがけに通路をみて「なんでオレンジ(みかんだったかも)の皮が捨ててあるの?」とお母さんに訊く。お母さんが皮が細かく分解され、土になることを教える。

 

そうか、今まで子どもの頭のなかではゴミはゴミでしかなかったのかと思う。今、そこに循環のイメージが生まれた。学びは自分が疑問に思ったその時に開かれている。気にもしてないときに教えつけられる教育は、贅沢ではない。自給とは、自分に必要な贅沢を与えることだと思う。