降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

雑想 言語による身体の乗っ取り

今週のお題「これって私だけ?」

 

生きている身体や思考、無意識を含めて自分ととらえる向きもあるけれど、僕はそうは思わない。無意識は定義からしても自意識に全く感じられないから無意識なのであって自律的。

 

関われる領域、理解できる領域は自意識だと思う。心はわからない。無意識はわからない。自然もわからない。身体もわからない。他者なのだから。

 
その自意識は、言語によって構成される。


人は、言語で意味を構成された世界をつくり、そのなかで生きているため、未来という仮定の概念があると思う。ところが、これは動物としての身体としては認知されないバーチャルなもの。

 

人は言語で構成されたリアリティ、世界観をもっていてそのなかで生きている。言語を使うことによって、自分の身体や他人の行動などにも干渉ができる。10年後の未来などを前提にして、バイトに行くとか、その瞬間にやりたくないことであっても無理やりやることができる。

 

なぜ身体に逆らったことができるのか。それは言語によって、存在しない危機状態のリアリティをつくりだせるからだと思っている。危機状態をつくることによって、優先順位を変えられる。自然な自動性を抑え、無理やり言うことを聞かせられる。

 

これが言語の力だと思う。自然状態だと行動の選択肢がない。その状態を一旦宙吊りにして働かなくさせ、そこに重ねてプログラムをいれる。自然状態を外し、麻痺させることによって、自由を得る。乗っ取りの状態にする。自意識としての自分というのは、言語が作り出した世界によって身体を支配するこの乗っ取り状態であると思う。

 

ところが、本来的に自律的に調整されるものを無理やりに麻痺させ、動かしているのだから、その乖離による副作用もある。また言語が身体と一体化することによって、身体が言語抜きで自律的調整をしていたところに言語が混ざる。言葉は、感情や身体に影響を与える象徴と直接結びついているため、薬(毒)のようになる。身体の自律的調整に、言葉が混ざることによって、やや過分に作用と反動が現れる。

 

その結果として、刺激にたいして暴走する思考が生まれる。強烈な作用をもつ言葉が自動的に想起され、使用されて状況を抑圧しようとする。

 

言葉は危機状態をつくりだすことによって身体を麻痺状態にして、コントロールしている。思考は、現実の危機状態に対し、状況をよりコントロールするためにより麻痺をすすめ、薬(言葉)によって安定を図ろうとするが、麻痺、抑圧へ向かおうとすること自体が自滅的現象を増幅させていく。

 

そこで、メタ的なコントロールへの志向が生まれる。重要な状況に面したときには自滅的になる思考のほうを宙吊りにし、麻痺させる。必要なときに、思考が働かず、もともとの自律的な調整へゆだねられるように、身体や刺激と反応のあり方を調整していく。