降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

媒体としての自然

朝に友人のダイトゥからメールがあり出町柳のかぜのねへ。

 

3Dプリンターで作品をつくって遊ぶ店が出されていて、店主はネット上で子どもたちが絵を書いて動きをつくって保存するとみんなの書いた絵が同じ画面で動いて楽しめるのがみれて、コンピュータやプログラムを直感的に理解できるように作られた「ビスケット」というソフト(アプリ?)をつくられている原田さん。

 

ダイトゥから話しをきくと、原田さんは去年僕も行っていたワークショップデザイナー育成講座の1期生で、僕たちが使っていた映像教材に出られていた方だった。講座を受講した主な目的が、何か活動している人たちとの関わりの通路をもつことだったので、受講がいきた。この講座は4ヶ月ぐらいなのだけれど、割と集中的に土日をまるまる使ってワークショップを体験的に学び、自分たちでもデザインするというもの。

 

 学校を出れば多分職場とかいつもいっている場所以外で人間関係ができるということはあまりないのではと思う。ご飯を一緒に食べたり、飲んだりはするけれど、それ以上何か一緒にやるということもあまりない。

 

 ある人とある人と間に「関係性が育つ」ということは、どういうことかと考えてみると、それはその間で気兼ねなく何かが表現できたり、ものをお互いに頼めたり、一緒に何かをつくれる範囲が広がっていくということではないかと思う。

 

たくさん人と親友になればいいという話しではなくて、いつも会わなくても、たまに会った時、必要があって関わる時は人と人としてお互いを大切にしながら、自由に一緒に何かをできる人を増やすと、人は生きやすくなるのでは思っている。

 

ところが、この同じ人と人としてのフラットな関係性を育てる場というのは、社会ではとりたてて用意されていない。個々勝手にやってくれということになっている。

 

関係性が育つ機会は、一緒ご飯を食べたり、合宿にいったり、あるいは共同で何かをつくるなどがあると思う。こういうことは、現代では自前でわざわざ設定する必要がある。関わりの度合い、そこに投入するエネルギー、気持ちなどが大きいほど、関係性の深まりに寄与する。

 

しかしただご飯を食べるのを繰り返すよりは、何かを一緒につくりあげるような体験をしたほうがいいようだ。演劇をやる人たちは、一回公演するとメンバー間でかなり関係性が育つときく。もちろん喧嘩したり、仲が悪くなる場合もあるだろうけれど、総体としては個々人が主体的に関わる場で共同作業をすると関係性はかなり育つと思う。

 

別に嫌いな人、あわないひとと無理に関係性を育てる必要はないけれど、同じ人と人して、その間で信頼感をもっていろいろ融通をきかしたり、生かしあったりする関係は多くあってもいいだろうと思うし、押し広げていうならば、国や文化に違いがあっても人と人がどれだけ互いを大切にし、必要に応じて自由にコラボできるか、という基盤が底上げされていくだけ世界はよくなるだろうと思う。

 

ワークショップデザイナーの講座では、社会的なステイタスや年齢などが一旦フラットにされて、お互い水平的な立場がスタートで関係性が育てられていく。これは大きいことだと思う。そのことによって、かなり年齢が上だったり、普通に出会うかたちではおこりにくい、水平な関わりが受講後でもメンバー間では続けられる。

 

関係性のセッティングが一度なされると、それを後から変えるのはなかなか難しい。日常生活では、その関係性のセッティングの様式、テンプレがかなり限られている。すると本人同士はそんなに意識していなくても、関係性の型がきまり、その後の関係性も型に大きく影響をうける。

 

一旦、「先輩」だった人があとでフラットになるのは難しい。ところが、大学とかでは同期生が浪人していて年齢が上であっても、はじめから同期だったら大抵フラットな関わりになれると思う。それは、関係性をつくるときの最初の設定の違いだと思う。

 

設定を自分が調整する側になれば、そこでのメンバー間のフラットさはデザインすることができる。一旦、社会的ステイタスや年齢の意味が無効化されるような外枠をつくる。そして共同作業をすると、フラットな状態で関係性が育っていく。フラットであることによって、自由度、やりやすさが飛躍的にひろがる。

 

ではそのうえで、自然に関係性が育つに適した場とは何か。教室の中なのか、家の中なのか。しかし、そのようなところは、既にそこにいる人の立ち位置や役割があらゆる文脈で決定されている。そこにある文脈、空間の構造がそこでおこることを決定する。

 

なので、そのような立ち位置や役割が曖昧化する場、境界的な場で行うことが有効だと思う。また人が人にやらせるときは、意図のいやらしさ、弊害、逆効果がつきものだ。立ち位置や役割が曖昧化して、人と人が自然とフラットになったり、共同作業ができるにところはどこか。

 

それが自然という他者のなかにおける里山活動であったり、たとえば農作業であったりすると思う。社会的役割が立ち位置、関わり方が曖昧になり、個々人が割とその人らしさを維持し、自分で関わり方、近づき方を調整しながら人とやりとりすることができる。

 

人工林を伐採しても売れない。米も安い。里山や農体験は、そこに植わっているものをそのまま商品化する「経済的」価値ではなくて、人を育てる媒体としての価値をみたらいいと思う。体験の質、幅、豊かさの奥行きが深い。人間が仕事のために他の文脈や意味を排除して作った空間は、豊かな体験を提供する場としては、どうしても貧困なのだと思う。

 

(場やものが人に提供する体験の豊かさにおいて、効率化と貧困化するというのは同義だなと思った。あるものに付随する他の意味あい、雑多なものを削り、一つの文脈だけに純化することが効率化だから。)

 

自然はときどき人間のやることを無意味化する。それも重要な認識だと思う。現代は、人間のつくった意味や理屈が押し広げられ、細部まで行き渡らされすぎたせいで、人間や社会にとっての意味、つまり有用性で人の価値がきまるようになった。

 

人は人の役に立つから価値があるのではない。その前提がないと、人は生きづらくなり、もしかしたらそこでつくりだせたかもしれないものもつくりだせなくなってしまう。

 

全ての人が価値があるということで納得できるならそれでいい。でもそれも違和感をもって聞こえるなら、自然という他者を前にしたとき、人は同じように無意味であり、価値がないととらえるとすっきりすると思う。人が良い振る舞いをしても悪い振る舞いをしても関係なく、太陽には寿命があって終わるときがきたら終わる。

 

価値というのは人と人との間にあるものであって、人工物だ。人工物で、自然の本来性をはかることはできない。しかし残念ながら、人は人にとっての価値しかつくることができないし、感じることができない。だから自然が自然であるから大事だというよりも、人間が育っていく場、人と人の関係性が育っていく媒体として光をあてるほうが、結果として自然は大切されていくと思う。

 

自然という、人のもつ肩書きやステイタスが曖昧化されるバックグラウンドのもとで、人と人が関係性を育てていくために必要な共同作業は、林業や農的な作業を媒体とすれば、うまくデザインすることができるだろう。「自然」ではなく、「人育て」をするものとして自然をとらえなおし、関わり方を開拓していく意義、必要性はとても大きいと思う。