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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

まわしよみ新聞に行ってきました 自律性と人工漁礁

人と人がフラットに話しができる場や仕組みとはどんなものか考えてきました。

 

政治なり原発なり子育てなり環境問題なり、テーマをしぼって催しをしても関心がある人が来るのはいいけれど、同時にそれが限界でもありそれ以上展開しないというジレンマがあります。

 

最近は、本来の狙いがあったとして、企画する側がそれをそのまま来た人にやらせたり、決まったあり方で考えさせたりしないのがいいなと思っています。何かが自由に勝手に起こるのがベストであって、企画側が考えるべきは外枠のあり方だと思います。

 

京都の鴨川(公園)は散歩もできるし、自転車も通れる。楽器の演奏していたり、春は花見、夏はパンツ1枚で肌を焼く人があらわれ、その他様々な催しがゲリラ的にもされていたりする。個々の人は勝手に楽しんで利用しているわけですが、同時に様々な交流が意図せずそこでは起こっています。


このテーマを話そうという集まりをつくるより、鴨川のように、多様な人が勝手に、結果的に色んな交流がおこし、色んな話しがされるという仕組みのほうが持続的でいいなと思います。鴨川自体は人に働きかけず、人が鴨川を利用する。

 

そのように、企画者は単に外枠を提供するだけで、あとは個々の参加者がそれを勝手に利用して楽し、やりとりを楽しむ。しかしその結果として、異ジャンルの人たちが交流し、様々な話しがされる。まわしよみ新聞は、絶妙なバランスで人と人が楽しんで話をし、やりとりできる媒体だなと思い、前から体験の機会をうかがっていました。

 

今回、京都新聞岡本晃明さんからお話しがあり、僕を含めて5人の企画者で甘夏ハウスでまわしよみ新聞をすることになりました。

 

まわしよみ新聞は、まず参加した人たちが4人ほどのグループに分かれます。そこで各人が気になった記事を3つ以上選び、グループ内でプレゼン。その後、グループでプレゼンされた記事で面白いものを選び、壁新聞をつくります。壁新聞は場のみんなに対してプレゼンします。

 

新聞は、各地方版の京都新聞点字の新聞「点字毎日」や繊維業界の新聞「繊研新聞」、スポーツニッポン岩手日報、各種釣り新聞など。今回は使いませんでしたが、フリーペーパーやフライヤー類もokにするなど、バリエーションをつけても楽しそうです。

 

一つ一つの記事が凝縮したクオリティを持っているので、簡単に紹介するだけでも成り立つし、それを自由に切りはりし、組み合わせて、私流にプレゼンすることで出てくる面白みがありました。

 

自己紹介は、特にありませんでしたが、記事のプレゼンをやるなかで自然にその人が好きなことがわかるというのはいいなと思いました。

 

自己紹介をどうとらえるかは、催しとかする人には気になるところだと思うのですが、自己紹介が苦手、嫌という人は割といると思います。でも、相手が誰かがわからないために、話しのきっかけもなく、うまくやりとりができなくて場が停滞する状況もある。
わざわざ人が集まる催しに来ているのに自己紹介が嫌ということは、自己紹介するがために、その人にとっては、何か余計に場にいにくくなったり、人から見られる自分イメージが固定化されて不自由を感じたりするのかなとも思います。

 

社会的な肩書きが一番先にきてその人との関わりが始まるのと、なんとなくその場で相手を感じていくなかでその人に近づいていくのは、その後の関わりのひらけ方があるいはだいぶ違うかもしれません。

 

いきなり固定化した距離を設定してしまう肩書きの提示より、相手が好きなものや気になるものを知ることで、相手の輪郭を知っていくということのほうが自然なのかもとも思いました。

 

まわしよみ新聞考案者の陸奥賢さんは、まわしよみ新聞を「しんぶんを使ったノーテーマの遊び場」と表現されていましたが、ノーテーマであるのに多様な人が一つの場にいて遊び、思うことを言い、関わりをつくれる媒体はなかなかないなと思います。
テーマを設定した瞬間に来る人は限られてしまう。するとその後の場の発展性も限られる。またその場での人の振る舞い、思考や言動も限定されてしまう。だからといって、何も枠を設定しない場はかえって自由にならない。そもそも放っておいてもうまくいってないから場を設定するわけですし。

 

では何を設定するかと考えるときに、人を直接操作して目的に到達しようというやり方をとってしまうと、そこに潜在していた文脈や可能性が現れるのをあらかじめ排除する結果になってしまうと思います。作為的に働きかければ働きかけるほど歪んで失敗してしまう。

 

場は設定するけれど、人を直接操作しようとするのではなく、人が勝手に好きなことをしてしまう外枠をつくることが重要だと思います。

 

自分も催しをやっていて思うのは、一番面白く、力強く、信頼できるのはその場で「偶然」おこる発現であって、その発現は場を性質を変える力もあり、その後の人と人との関わりの通路も開通させるということです。
こちらの働きかけで「やらせた」ことは続かず、あまりそれ以上面白く展開していかない。

 

「偶然」「たまたま」おきるようにみえる発現というのは、しかし、実はそれは偶然ではなく、そこに潜在していた何らかの自律性があり、その自律性が発現していく条件が揃った、ということではないかと思っています。条件が満たされたため、その自律性が間隙を縫って現れでてきた。

 

自律性は直接操作することはできないけれど、それが現れる環境を準備することはできる。「人事を尽くして天命を待つ」ように、天命はそれ自体の自律性をもつために、想定されるあらゆる用意をして待つことしかできません。

 

自律性はそれ自身で力をもっているので、その人や場に元気が満ちます。何かをやっていて、疲労していくのは自律性の力を使ってないからだと思います。ギブアンドテイク、等価交換の思考は実はすり減っていく考え方。既に力があり、動こうとしている。エネルギーを生むエネルギーがある。その力を使うところに可能性がひらけてくると思います。

 

人という意識的主体が媒体を使ってコミュニケーションすると考えるよりは、コミュニケーションがそこにある媒体を使ってコミュニケーションするととらえたほうが実態に近いと思います。

 

自律性を発現させるための環境を整備し、かつ対象に余計な直接操作をしない外枠を、僕は「人工漁礁」のようだと考えています。人工漁礁では、沈船やコンクリなど、それ自体は周りに働きかけないけれど、そこにある自律性(生き物)が勝手に住み着き、利用し、そこに生態系をつくっていきます。まわしよみ新聞も人工漁礁ではないかなと思っています。