降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

尊厳について

最近は尊厳という言葉を時々使う。

金子みすずの「みんなちがってみんないい」は、裏返していえば、私は私としてあり、誰もそれをおかすことはできないという意思表明だと思う。



尊厳は日常的な言葉でなく難しいけれど、尊厳の逆は「みじめ」だと思う。人の小ささに対して世界は別に手心を加えるわけでもなく、人はどんな時もどこまでもみじめになる可能性がある。ささいなことでもみじめのどん底に陥ってしまう。


みじめになる必然性はないと思っている。みじめさの体験をばねにして何かがよくなった、というようなことがあったとしても、実際多くの人が貧困というみじめさのために犯罪者になるのだから。

(ここでの貧困は、単に経済的貧困をさすのではなく、人が破滅的にならずに世界と関わり、自分で自分を回復させていくための資源や余裕がないこととする。)

 

みじめさは、精神的なものと言えるだろう。単に生命が追い詰められた状態ではなく、心が追い詰められた状態。人間が関われる心とは、つまるところ文化的な構造物であるところなので、そこには文化的なケアがいる。

 

世界の現実に対して、人間同士のなかだけでも、みじめさから救いあおうというのが人らしくあることであり、文化なんだと思う。

 

人らしくあろうとすることは文化の理屈であって、生きものの理屈とは違う。ほっとけば、そのままでいいという理屈、高きから低きに流れるだけでいいという理屈ではない。

 

わざわざ意思してつくらなければ、意思して選ばないのならば、尊厳は守ることができない。そのままで放っておけばできないものをつくるのが文化だと思う。

 

生きものの理屈では、強いものが幅をきかせ、弱いものは淘汰されていく。強いもの、賢いもの、見栄えのいいもののほうに価値がある。しかし、そんな理屈にそのまんま従ったところで、虚しく生きづらい世界が繰り返されるだけだから、大昔から心ある人はそれはもうやめようと決意してきたんじゃないかと思う。

 

生きものの理屈で、自分の体もまたできている。

 

この社会も、この世界もその理屈で成り立っているのにもかかわらず、人らしく生きるということ。それはまぎれもない反逆なのだと思う。

 

人らしく生きるというのは、この世界で、この社会で成り立っている理屈に対しての反逆なのだと思う。