降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

大村はまさん企画報告

少し毛色の変わった投稿を。

 

月1回ぐらいのペースで、たそがれトークバックという話しの場をつくっています。

 

今回は、大村はまさんの教え子の小林亜里さんをお迎えしました。
大村はまさんは、国語教師で、教科書を使わない授業を実践された先人。

 

『優劣のかなたに』という詩なども書かれています。

 

『優劣のかなたに』 大村はま

優か 劣か
そんなことが 話題になる,
そんなすきまのない
つきつめた。
 
持てるものを
持たせられたものを
出し切り,
生かし切っている
そんな姿こそ。
 
優か劣か,
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか,
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れている。
 
思うすきまもなく
学びひたり
教えひたっている,
そんな世界を
見つめてきた。
 
一心に 学びひたり
教えひたる,
それは 優劣のかなた。
 
ほんとうに 持っているものを生かし,
授かっているものに目覚め,
打ち込んで学ぶ。
 
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない,
優劣を忘れて
持っているものを出し切っている。
 
できるできないを
気にしすぎていて,
持っているものが
出し切れていないのではないか。
 
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。
成績をつけなければ,
合格者をきめなければ,
それはそれだけの世界。
 
それがのり越えられず,
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。
 
学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。


小林さんは、中学の3年間大村さんの授業を受けました。大村さんは教科書を使わず、授業で学ぶことやプリントなどは、生徒一人一人がまとめ、表紙、奥付など体裁も整えて冊子にしていきます。

 

今回は、当時作られた3年分のテキストも持参いただきました。大村さんは1年単位ではなく、3年単位で生徒を担当され、3年というスパンを前提に、授業はデザインされています。とても贅沢な時間だなと思います。

 

小林さんの紹介を聞くなかで、国語が単なる一つの科目ではなく、総合教育になりうるのだということを知りました。

 

たとえば、あるときはインタビューを取り扱いますが、インタビューという言葉の原義が面会であって、しかし現在インタビューという言葉は、公開を前提として話しをきくという意味で受け取られているという由来や背景の説明から、実際に生徒にインタビューをさせる。

 

どのようにインタビューをしたらいいかなどは、生徒に考えさせる。けれどその時、ただ生徒に考えなさいと丸投げするではなく、ほどよくトリガーになるような提案やきっかけを状況をみながら与えていく。

 

面白いのは、小林さんが授業を受けていたときは、大村さんは60歳前後だったのですが、子どもが60歳の女性に話しをきくときはどのように敬語を使えばいいのかをその際に教えていく。わざわざ、敬語というものだけを純粋に抽出して、プリントで学ぶということはされなかったそうです。

 

大村さんは、一語一語に対して定義がのっているような辞書ではなく、こういう時はどうしたらいいのか、どういう言い方があるのかという辞書をつくりたいと言われていたとのことですが、実践的、現実に通じる学びのあり方を追求されていたのだと思います。

 

ここで連想したのは、フィンランドやドイツなどの科目のない学習のことでした。平田オリザさんからのまた聞きですが、たとえば、かつての毒餃子事件みたいなことがあれば、餃子をテーマにして、学習を組み立てる。餃子とは何か、毒とは何か、日中の関係性、貿易とは、流通とはという様々な要素は、国語算数理科社会外国語といった全てのことを組み込み、学ぶことができる。

そしてこういう学びは、生徒が社会に出たとも、実際に社会における現象を自分で調べ、考えることができる基盤をつくっている。今の日本の授業というのは、そこにある文脈を全て断ち切り(たとえば敬語だけを抽出して学ぶとかいうふうに)、バラバラにして、「純粋に」教えるために、かえって実践で使えない。

 

「基礎」を積み立てていくということを体裁からしか見ていないのではと思いました。学びというのは、本来的にはどのようにおこるものなのか、どのように進むものなのか、という自然のありようを問うことなく、体裁で学ばせる。

 

以前、知り合いの方が、歴史はなぜ古代からやるのか?という疑問を出されていました。何かがおこる背景には文脈があり、問題となっていることを探っていくなかで、歴史が重要になる。問題がおこるからこそ、それがなぜなのかという学ぶ動機が生まれ、探求する体勢が生まれる。その方は、現代史からこそ、始めるべきだと言われていましたが、全くその通りだと思いました。体裁上の順序ではなく、体がもつ学びの順序が優先されるべきなのだと思います。

 

大村さんの国語授業には、既に現代求められているようなことのエッセンスが盛り込まれていたのだなと思います。インタビューを学ぶということのなかに、たとえば英語にふれ、そして人にふれ、他者への話し方を学び、敬語を学ぶことが含まれている。これが自然な学習のあり方なのではと思います。

 

インタビューは一例ですが、朗読する際にも、「ここは畳み掛けるように」というふうに働きかけ、体験させるあり方などは、演劇的要素もあるなと思い、平田オリザさんが中高生を対象にしている国語授業も思い出していました。

 

大村さんの職人的な授業は誰もが真似することはできないかもしれません。徹底的に練られ、準備されていたもの生徒に提供するというスタイルは、当時も周りの教師からそこまで自分がやるのは無理だと言われていたそうです。大村さんは、生涯独身だったとのことで、もし結婚したり、子どもを産んだりしていたら、あるいは同じことはできなかったのかもしれません。

 

しかし、そのまま真似ができないので意味がないとするのではなく、はまさんから見える風景をシェアしてもらえることによって、現状を先にすすめる手がかりがもらえれば十分なのではないかなと思います。「銀の匙」を3年かけて読む授業をした灘高の国語教師の橋本武さんにせよ、教育哲学者の林竹二さんにせよ、それは同じだと思います。

 

先人が既に明らかにしていること、到達したところからシェアしてくれている重要な示唆があるのに、現代がそれを受け継いでないのは実感しました。

個人的には、教育の改善といえばすぐ公教育の改善だとみなして、公教育だけの話に終始することには大きな疑問があります。公教育を自分が担えなくても、自分の周りでまず自分たちに力をつけ、先に進むために使う場をつくるのが先ではと思っています。

 

ナリワイの伊藤洋志さんは、床張り協会をつくって素人が床張りできる実習の場をつくられていますが、そこでは個人に住居の重要な部分を直せる力をつけるということだけでなく、どういう床張りがいいのかというリテラシーが一般の人から失われることが業界と一般人に悪循環をおこすので、そこを歯止めするという意義を指摘されていたかと思います。

 

公教育をよくするということのためにも、まず自分たちがリテラシーをつけ、必要な学びの場を自分たちに与えることから始められるし、それを抜きに何かが良くなるような気が全くしません。

 

上記の先生たちは、1対30人とか40人とかの仕組みのなかでの学びを追求されたわけですが、学びの主体性とか参加度とか面白さを考えたら、少人数でやれば、いろんなハードルが大きく下げられるし、先にすすめるのになと思います。

 

大学で授業面白くないけど行かなければならない。学生は学生で面白くないし、講師は講師で学生のやる気のなさに困る。でも、そういう大人数をとりあえずまわす仕組みが教育なんだという前提を外せば、進み方は自由に工夫できるのにと思います。

 

たそがれトークバックは、基本的に少人数でやります。体験の質、話しあいの質が大人数だと下がるからです。大人数でわいわい楽しむが目的なら大人数でやればいいと思いますが、話しを深めるのは少人数が適してます。そして関係性があるなかでやる。知り合いの知り合いまでが対象で、全く知らない人を募集していません。話しの深まりにも関係性の質が重要だからです。

 

企画者もお世話に徹するのではなく学ぶ場。講師も一方的伝達の権威ではなく、ある種「仲間」としての質をもつ。そういうデザインです。少人数だとそういうことが成り立ちます。大人数を対象にできないのなら意味がないと言わず、そこここで、それぞれの場所で少人数が学びの場をつくることがいいのではと思っています。

 

※追伸 今回、たそがれトークバックの企画を引き受けてくださる過程で、小林さんがご自身の中学時代につくられた冊子を見直したり、大村はまさんの書籍を読みなおされたりされたとのことなのですが、そのさいに大村はまさん関連の書籍を書かれている苅谷夏子さんが、なんと同じタイミングで授業を受けていた知人だということがわかったそうです。刈谷さんと連絡が通じ、新たな展開が生まれてきているそうで、次回の企画は刈谷さんも関わるものになりそうです

小林亜里さんのブログでもこの日のことが書かれています。

http://blog.terra2010.com/?day=20150131