降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

こどものために

疲れる言葉にちゃんと気づいて、向きあいを確立しないと疲れがたまっていく。

こどものためにという言い方があるけれど、なぜこどものためにというのだろうかと思った。政治的な意味では、そのほうが受けがよくて、人に伝わりやすいということはあるだろう。意図して戦略的に使われることが、生産的な結果を生むこともあるかもしれないし、それを止めるつもりはない。

 

しかし、「こどものために」を真に受けるとまともに疲れる。自分のうちでは距離をとるほうがいいと思った。自分のこどもを幸せにしたいのは、自分の思いなのだから、自分のためにと言ったらいい。

 

多数の人を動かすという戦略のことを考えなくていいのならば、本当に自分がやっているのが「こどものため」だと考える人は、うまくいかなければ子どもや周りを恨むだろうからよくないと思う。

 

自分のためと言うときに感じる後ろめたさ。この後ろめたさがバランスをとるのだと思う。「考えたけれどこうでしかあれない。勝手であるけれどやらせてもらう。すまない。」これが人の思いに対する柔軟性となり、相手のどうしようもなさに対する理解になる。自分も人でなしであることを受け入れたところに優しさがあるのではないかと思う。

 

自分のこどもではなく、こども一般を救いたいという気持ちで動かれる方もいるだろう。当たり前だけれど、その人のその貴重なあり方を利用して、あなたも無私であれとか人に言うのは間違いだと思う。無私ではない。

 

その人の実態は、自分に必要だからその行為をさせてもらっているのだと思う。無私とか人のためは虚構であるけれど、ポエムとして戦略的に利用されるのを理解する。大事にしたいことのこころを好意的にくみとり、対応をするけれど、言葉を真に受けてはいけない。