価値を設定すること 価値に強迫されること
出町のカフェ、ボールアンドチェインへ。
甘夏ことば表現講座でつくったジン「生き残り 回復していくために」を先週置いてもらった。けれど、表紙カバーがべらべらだから破れそうとのこと。確かに。さらに何かのカバーをかけたらいいのだろうか。
ボールアンドチェインには、5、6年以上前から行っていると思うけれど、ジンのプロフィールに四国遍路をしたと書いていたのをみて、「へー、行ってたの」と言われて喋ってなかったのを少し意外に思う。
今日行くと早速読んでくれていた。なんか励まされたと言われて嬉しかった。書いていることは、学問的根拠も何もないが自分が確かめてきたこと。学部で心理だったからといって何か専門知を得ているわけではないし、考えをすすめるのに必要だったものは、農だったり、演劇だったり、ダンスだったり、武術だったり、マイノリティだったりの事例。
回復とか自分の定義だし、自己実現というものが代償欲求がその実であって、失われた尊厳、本来与えられるべきだったものを取り戻すためにおこっているとか、「人格の成長」というのはない、とか、肯定的にみえて人を強迫的にひきつらせてかえって変化を阻害する概念を自分で勝手に位置づけ直してきた。
人の肯定的な変化は、しがみついていたものから離れた瞬間におこる。否定していたものを否定しなくなった状態の時におこる。治らなければいけない、成長しなければいけない、という意識自体が変化をとどめる。こだわっていたことにこだわらなくなった瞬間には、次のところに行っている。
変化のためには、「生きること」に対してさえ、心が強迫的にされないことが重要になる。人がいう「生きること」というのは実際には頭でつくられている概念であって、生きることそれ自体ではない。
心が、どのような人工的な権威にも価値にも概念にも強迫されないことが、
生きる力を最大化させ
る。
でも、最大化するのがいい、と価値設定するとそれが評価基準になって、最大化できている、できてないという価値で実質の生が阻害されてしまう。ならば、どうするか。