降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

取り引きするものとしての生

もともとは狩猟採集だったので、農というのは、生きていくときの一つの工夫として生まれたものだと思う。だから狩猟採集をしているときの設定や感覚が生きものとしてデフォルトなんだと思う。

 

 

狩猟採集のときは、農を基本とする暮らしと比較して相対的に、恵み、食べ物、敵との関係はコントロールできないという感覚が強いのではないだろうか。一方、農は、生きることを計画することだと思う。ある時期までに何を採る。自然だから採れないこともあるのだけれど、そこを何が何でも採るように計画し、実践する。

 

 

計画することは、取り引きすることだと思う。これ(労力・決まった行動など)をやるからあれ(食べ物)をくれの感覚。狩猟採集のときは、全ては恵みとして受け取られていたのから変わり、ここで生きることは取り引きの結果として与えられるものになったのではと思う。少なくともその感覚はかなり増強されたはずだと思う。

 

 

計画に必要なのは、手段や媒体の確かさ、関わる人の有能さ。
農をして生きるという、生を取り引きする思想の自然な延長線上に資本主義はあったと思うし、深刻な破壊と干渉が無論あったけれど、でも提示されればみんなはそちらに移行したのだと思う。根本的な発想は同じだから。

 

 

生きるということは、生きものにとって絶対的なことで、たとえ奴隷になろうとも生きる可能性が高いことを選ぶと思う。生きものとしては。

 

 

生きものの理屈からの逸脱は、破滅的なことも招くこともあるだろうけれど、生きものであることを無批判に絶対視して価値付けすると抑圧的になる。

 

 

一人だけを除き、世界中の男性が生殖能力を失うという設定のマンガがあった。設定では、世界があらゆる協力をして人類を維持し、増やそうとする。本人もその気だったのでそれはそれでよかったけれど、その最後の一人が嫌だったらどうだろう。「人類のために」無理やり生殖させるのか。

 

気分はスーパータフ (ヤングマガジンコミックスエグザクタ)

気分はスーパータフ (ヤングマガジンコミックスエグザクタ)

 

 

 

 僕は嫌なことはさせなくていいと思うし、人権というならそこを守るためにあるんじゃないかと思う。中井久夫さんがいったように、生きものは擬似目的論的な存在。川の石が下流で小さく丸くなるからといって、石は丸くなるために存在しているのでもなければ、丸くなるべきなのでもない。究極的なところで、ただ結果的にそうなったもののありように対して、勝手に目的やあるべき姿を汲み取るのはまちがっている。

 

 

僕は生きものには目的なんかないと思っている。みんなどうしようもなくこの世界に投げ出され、生まれてきているから、人と人の間だけでも「やさしく」ありましょうよというのが人にとってのささやかな救いだと思う。そしてその時の「やさしさ」は生きものの理屈からは逸脱していて、反逆としてあるものだと思う。