降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

岐阜芸術フォーラム発表原稿その1 自給 道中のデザイン

今週末に岐阜芸術フォーラムというところに行くのですが、主催されている方と話していて、そこで場づくりや自分たちの生存圏についての発表をすることになりました。

 

自分たちが直覚できる範囲で、この世界にもう一つの人として生きていける生存圏をつくり重ねること。世界がたとえ変わるのが遅くても活動が無駄にならず、自分たちをエンパワメントしていくことについて話しをしようと思います。ワードの画面より、ブログのほうが書きやすいのでこちらで。


芸術フォーラム発表原稿

生存圏をつくるために

1 エンパワメントとしての自給 生きることを自分のほうへ近づける

僕は、自給自足のための畑をやっています。また同じ畑で自給のための作物づくりを学ぶ実習講座を運営しています。僕自身は外食はしますし、好きなものを買いますが、野菜は買わずにつくったものを食べています。米も今年はやっていませんが、前年までやっていたものが残っていてそれを食べています。あと週に1、2回知的障害のある人の共同住居で夜勤をして現金収入を得ています。収入は月7、8万ほどですが、8万あれば余裕をもって遊びや関心ある催しなどに参加できます。その気になるなら食費をほとんど使わずに食べていけます。

 

実家の愛媛では、祖父や父が畑をやっていましたが、手伝わされることもなく、また関心もありませんでした。中学校以来自分の関心は、自分や人が変化し回復していくためにはどうしたらいいかでした。当初は、個人内の心の理解に関心がありましたが、四国遍路の経験によって、知識として心の詳細を知らなくても、環境を調整し、状況を設定することで、人と人の関係性や、そこで体験されることが変わることがわかったので、場づくりに関心をもちました。農への接近は、人と人が交流できる場としての関心からでした。

 

無農薬米づくりを農家さんと一般の人が一緒にする企画を考え、運営したりするなかで、やりたいことをやっていましたが、何故か疲れ、先が開かない行き詰まりから抜けられませんでした。その時に出会ったのが自給という思想でした。大学の近くにカフェがあり、そのオーナーは自分で作った無農薬、無化学肥料の作物をつかった料理を出していました。市場や国の思惑、現場と切り離されている消費者にふりまわされ、結局は従わなければならない農業に絶望したオーナーがたどり着いたのが自給という思想でした。

 

自給は発想としては昔からあるもので、別段どうということがないと思われるかもしれませんが、それは括弧付きの「社会」や市場の論理に従うことから、自分や自分たちを軸とし、エンパワーしていくことへの転換です。自給とは、自分が世界に直接働きかけ、生きていける環境をつくっていくという方向性であり、食べものに限ったことではありません。

 

では、そこでどのような転換がおこるのか。畑への関わりの実際からご紹介します。素人が野菜をつくる場合であっても、農は一般には、商品作物を出荷する農業のあり方がお手本になっています。

 

まず畑の概観も違います。ご覧になったことがあるかもしれないですが、作物にもよってもかわりますが、よくあるような60cmほどの細い幅の畝、その間の歩くのもしんどいような30cmほどの通路があります。通路を通るときは、人は身を縮めて歩かなければなりません。なぜこのようにするのか。

 

農業では決まった面積あたり、どれだけ収量を得ることができるかが問題になるからです。自分の食べる分の必要とは関係ありません。また農業では、堆肥をたくさんいれて、そこでいかに色や形の整った適正なサイズのものを多くつくるのかが問題です。それがお金を多く得るための合理性です。服を買うのも、子どもを育てるお金も、自分が遊ぶお金も、より多くお金を稼ぐということのなかからしか生まれません。

 

一方カフェのオーナー(糸川勉さん)が考案した自給農法ではどうか。畝の幅は120cmから140cm。通路の幅も120cm。広々です。からだを縮めることなく歩けます。肥料はわざわざ買いません。畑に生えている草を利用し、家庭からでる生ゴミ、そして三つ鍬で通路や作物の周りの土にちょっとヒビをいれる「空気入れ」というケアで土壌の微生物活動を活発化させ、豊かな土にします。畝は幅広いほうが持ちがいい。細い畝は肥料をいれるのをやめると途端に栄養がなくなってしまうのですが、大きい畝だとそれを補えます。

 

生ゴミなどは一旦通路で土に戻します。もどったところでその土を鍬で畝にあげる。それが肥料になります。特別な肥料づくりための場所もいりません。空気入れによって、出たヒビによって、栄養は地面の下にも届きます。

 

しかし、それでも採れる作物が少なくて足りないのではないか。実は、自給ならそんなに広い面積の畑はいらないのです。たとえば、普通の人のジャガイモ1年分は、車1台分ぐらいの面積でつくることができます。寒冷地以外は、ジャガイモは年に春秋の2回つくれる。土寄せをしてきちんとつくるなら、それだけで足りるのです。

 

ミニトマトなどは、ブッシュ化するので、1株でも大量にできます。こんなに簡単にできるのに、スーパーの高い値段で買うのは馬鹿らしくなります。大きいトマトの栽培は、ミニトマトより難しくなります。原種が小さいのに大きくしているためです。でも、僕はミニトマトを沢山とることによって、大きいトマトに代替しようと考え、毎年ミニトマトを2株ほどやっています。

 

種をまくと、たとえ考えられる限りのことをやっても、うまく育たないものもあったり、台風や鳥や虫の被害にあうこともあります。だから確実に収量を得るために、作物は少し余分につくります。そのため余ることもあります。それは人にシェアできます。給料を多くもらっても人にあげにくいですが、作物は人にあげやすいです。人にシェアできて喜ばれるものがあるというのは嬉しいことです。そこで人と人の関係も育ちます。

 

また作物は、小さいときは周りに仲間がある程度いるほうが競争して早く育ちます。しかし大きくなって、まだ周りに仲間がいてきつきつになると、それ以上大きくなりません。ですので、間引きといって、大きくなるにつれて、残すものを決め、残さないものを抜いていきます。農業では、できるだけ大きいものを残します。一方自給農法では、基本大きいものから間引きします。なぜならそのことによって、周りの小さいものが大きくなり、長期的にみて、食べる量としてはそのほうが増えるからです。

 

同じ作物を繰り返しつくる畑では、土壌の性質が偏り、連作障害というものがおこり、作物がうまく育たなくなります。しかし、それは同じ所で同じものを大量に作っているのでおこります。様々な作物が植わっている自給の畑では、それとわかるような連作障害はまずおこりません。

自給という軸をもつならば、農業であったときの様々な矛盾や無理が消え、体に楽で、経済的、自分の必要なものを必要なだけつくる余裕が生まれます。僕のように、ミニトマトは量の多さで大きいトマトを代替できると考えるなら、やや栽培が難しい大きいトマトをつくる必要もない。自給の関わりには無駄ができません。またちょっとした発見や気づきが自分の暮らしに直接的に生きてくる。楽しい。

 

糸川さんは、農業的なやり方や無理を指摘するときには「そんなん楽しくないやろ」と言います。堆肥づくりに苦労する。草取りに苦労する。自給農法では草は、肥料にもなり、乾燥をふせぐためのカバーとしても使うので、草が沢山生えると嬉しさも感じます。自給においては、農業で邪魔なものとだけ考えられがちな草にも大きな意味があるのです。

 

糸川さんは、また「畑は労働じゃない」といいます。自分でカスタマイズできて、そこにいる時間自体も楽しめるようにその場をデザインするので、畑におく椅子や日陰をつくる場所、駐車場の快適さも考え、調整しケアします。我慢したつらい労働で得た対価で快い体験を買って生活の質を補うというのでもなく、市場の理屈や合理性でもなく、自分に取り戻され、快適で意味のある空間として調整された場所にいることは、目的でもあるのです。

自給するために畑をする。でも畑はつらい。ではなく、全ての時間の質をあげる。納得のいく時間にデザインする。楽しみ、自分を育てる時間にする。これは労働観の転換でもあると思います。食べものだけでなく、暮らしのなかで色々なものを自分や自分たちに取り戻すことには時間がかかるかもしれません。しかし、その道中をデザインすることが出来ます。食べものを得るという道中自体を楽しめるようにして、自身のエンパワメントや、世界や人と関わるきっかけにする。それが糸川さんの自給農法ですが、畑以外でもその考え方のエッセンスは応用できると思います。道中のデザインです。

 

続く