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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

大人の発達の最近接領域 生存圏をつくる2

🔳コミュニティ

・・・前回タイトルと違う内容に走ってしまったので、もう一度書きます。


学生の頃、修士論文提出締め切りがちかくなった先輩の作業を手伝っていた。先輩といっても、僕はなんだかんだと3年遅れて入ったから年下なのだけどともあれ、先輩は今まで書いてきたものを並べて結論までもっていく作業が極端に苦手だった。


この時期になって、もう考えるのは終わり。あるものでいかに流れをつくりまとめるかなのだけど、できない。ある一段落を書いてたらそこで問題性を発見して、そのことを追求しはじめようとする。先輩、これは短距離走で見えているゴールまで走っていくのが目的なので、一歩進んでそこから地面を掘り出してはいけない、と言ったけれど、人のことは言えない。

 

しかし、刺激を受けて文章が出ているときは、一種の受信状態に入ってて、その状態の時に言葉が出てくる。感じているものをなぞるのは、その時にしかできない。海に潜って息が続くあいだに海底に描かれている絵を読み取るようなものだから、その時はその時に出来ることをやり、また書くということにしたほうがいいような気がする。

 

 

http://instagram.com/p/vgffklpWwc/

 

実は来週にある岐阜のある集まりで発表の機会をもらったので、生存圏をつくるというところで、一まとまりのものを書こうと思っている。有り難いお話し。話す場と仲間をつくるために生きているようなものなので。


前回のエントリーで、生きることには、物理的な体が生きることと心が生きることがあると述べて、その後心が文化的構造物であることに話しが流れたが、心が生きるために環境をつくりつづけることについて書く。


ロシアの心理学者で、ヴィゴツキーという人がいた。その人が提唱した考えに、発達の最近接領域というものがある。子どもには自分だけでできることとできないことがあるが、全く解決不可能なことと、自分だけでできないことの間に、他人のちょっとした助けがあればその課題を達成できる領域があるという。それを発達の最近接領域という。

それはやがて一人だけでもできるようになるのであるが、その領域に他者が関わったり、働きかけることによって子どもの新しい発達や能力を伸ばすことができるというもの。もちろん、発達の最近接領域は、常に変化するわけだけどそれが人の学習の際に重要な役割を果たす。

 

さて、これは子どもの話しなのだけれど、考え方のエッセンス的なところは、大人にあてはめるだろうと思われる。取り組まなければいけなくなる環境、そしてそれを支援してくれる友人の存在によって新しい世界にひらかれた自身の体験について言及したフェミニズムクィア理論の研究者の清水晶子さんの11月25日のツイートを見てみよう。

 

「学問の面白さを教えてくれたのはフランスの批評家たち」と言えるのは素直に羨ましい。並以下の知性と理解力しかない学生だった私にとってフランス現代思想的なものは一人では当然まったく理解不可能だったし、不勉強もあってそれらの議論と自分を繋いでくれる日本語の参考書にも出会えなかった。

ああこういう風に考えるんだ、だから面白いんだ、と思えたのは、フェミニズム批評に出会ってからで、それは本当に偶然私が英文学を勉強して英語の文献を読まざるをえなかったからにすぎない。あの頃日本語でああいう議論に出会うのはそんなに容易ではなかった。

もちろん私はとってもできの悪い学生だったので、英語圏フェミニズム批評にせよ理論にせよ、それだって一人ではまったく理解できなかったけれど。それでも例えば作品というさらなる回路があり。作品と批評と自分とを繋げようとする四苦八苦に付き合ってくれた教員や友人という回路があり。

何が言いたいのかよくわからなくなったけれど。そういう回路が不要な優秀な人もいるだろうけれど、少なくとも私が多少なりとも「学問を面白く感じる」にはある種の回路が必要だったし、実感としてそういう回路はかなり偏って開かれがちだと思っています。今でも。

  

至極羨ましい話しだけれど、 清水さんの言う回路は、友人や教員だ。この人たちの力をかりなければ行けない領域があった。そしてこの領域へのひらかれたことは、現在につながる大きな意味があっただろう。誰しもがこのようなひらかれをもてるわけではないが、僕はこのように大人にも「最近接領域」にあたるものがあると思う。

 

この最近接領域というのは、とても面白い体験、充実した体験、新しい体験などとして感じられるだろう。で、僕は人というのは実は、まあまあ全方位にこの最近接領域をもっているのではないかと考える。何か新しいものに熱中したりハマったりするというのは、まさにこの最近接領域にいるのではないだろうか。必ずしも人でなくても、何かのモノでも何でも助けになればいい。

ただ、その程よさのレンジ、幅が非常に調整が繊細かもしれないと思う。そして潜在する能力が持続的に伸びていくためには、最近接領域をつねに用意し続けてあげることが必要なのではないかと思う。フィットする感じを探索し、その時その時に程よいところにいつづける。あるいはつくりつづける。

 

たとえばオセロが得意な子がいて、最初は年の近い兄弟姉妹とかとやり、強くなってきたら親とか、オセロ好きの集まるところに行くとか。しかし、弱いうちにめちゃくちゃ強い人に叩きのめされると、人によってはやる気がなくなるかもしれない。子どもだと行動や発達による能力にも大分制限があるので大人がその最近接領域を常に調整し、提供してあげることが必要になるかもしれないが、大人は自分で自分に提供することもできる。あるいは仲間とともに、お互いにその領域を提供することもできると思う。

 

人は自分でも思わぬところにその最近接領域をもっていると思う。友人とかで、この人にこれがあいそう、みたいに紹介したり、媒介してくれたりする人がいるが、友人間でお互いにこの領域の存在を頭に置いておくことで、生き残る力を増すチャンスをより得れる環境が生まれるのではないだろうか。


難しいのは程よさの調整。自分にとっての程よさを維持しないと効果が出にくい。ところが自分にとっての程よさが必ずしも助けてくれる他人にとって楽であるとは限らない。時には大きいエネルギーを払って、融通を利かせてくれる関係性が必要になってくる。余裕や、融通性は人の育ちに欠かせないのではないかと思う。

すると、周りにいる人の働き方やあり方などは多様性があるほうがいい。そして信頼関係がないとそもそも頼みごともできないので、信頼関係を育てられる間柄になることも重要になってくる。

フィンランドでは、統合失調症の前駆症状を呈する人のもとに、医療チームと周りの親しい人たちがすぐに集まってずっと雑談を続けるアプローチ「オープンダイアローグ」が症状の進行をとめる高い効果をもっていることが確認されている。医療チームはともかく、親しい周りの人がすぐに時間をとり、その人のもとに行くということは、他国ではなかなか実践が難しいといわれる。

 

これからより必要になってくる豊かさとは、信頼関係をもった人と人の関係性の多様さなのだと思う。それをどのようにつくり出すことが出来るのか。雇われることから自営業、ナリワイ化への移行は1つだろう。それができなくても、空いている時間をつかい、お互いを育てあう意識と感性をもつ人たちを見つけ、そこで信頼関係を育てる仕組みをつくる。しかし関係性を育てるにあたって「信頼関係をつくろう!」なんて安易で直線的な目的設定はよくない。そんなこと言わずに自然にそれができるような仕組みをつくる。

それぞれに共通に必要なものがたとえば料理の分担だったら、集まった人たちで交代でお惣菜をつくり、料理にかかる総合時間を減らし、かつ多品目食べれるようにするとか。デンマークのあるエコビレッジに住む人たちは、食事当番交代制で、各人は基本的に週に1回だけ作ればいいそうだ。暮らしのなかでニーズが高いところで、具体的に必要なものを満たすかたちで人が交流する仕組みをつくる。コミュニティをつくるため、とか決して言わない。友達は「友達になって」とかいうお願いや契約でなるものだろうか? 何かの機会があって結果的になるものだ。

 

そのような仕組みを僕は漁礁とイメージしている。人口漁礁は沈船やコンクリートなどそれ自体としては、面白みも内容もないものなのだが、それが魚の隠れ場所をつくったり、海藻を生やしたりして、そこを利用するものの生態系がつくられていく。こういうものをいかに用意し、それぞれの場所で重ねるか。初めから「居場所」をつくろうとするのは、いいアイデアでない。その設定自体が場の可能性を奪うから。しかし、ある程度持続的な場であるほうがいい。それは昔は井戸端だったかもしれないし、現代は病院の待ち合いベンチ、予備校の喫煙所かもしれない。それ自体としては意味のない場所で人の可能性は開放される。


漁礁を意図してつくる場合、たとえば家で余っている毛糸をもってきて、そこに色々できる人をよび、皆で何か必要なものをつくるとかすると、勝手に人は話しだす。小山田徹さんがやっているように、来やすい場所で定期的にたき火をする場所をつくれば人はやってくる。僕は、畑の年間実習講座をつくり、そこにくる人と一年かかわる。お互い空いているとき、それぞれ空いている時間に勝手に畑に来てたまたま出会い、話す時間は豊かな時間だ。結局その講座も来年で3年目になるが、3年継続の人も半分ぐらいいる。

生きることはサバイバル。何の工夫もせずに生き残れると高をくくることはできない。特により保証の無い暮らしをしている人たちにとっては。だが、自分たちを元気にしながら、エネルギーをためていく手段はそれぞれにあるだろう。今の生活を維持しながらもう一つ自分たちの生存圏をつくり重ねていく。デザイン次第でその道中自体が生きる充実を感じさせるものになるだろう。

 

もし、そんなことが全くできない危機にあるなら、危機を逆手にとることを考える。危機のその切実さこそが、思い切りを生み、新しい開けを生む基盤となる。むしろ中途半端な危機が最も危ないのかもしれない。うまくいく保証も確実なやり方もないけれど、そこに踏み込んで近づいていくと生きていく強かさが開発されていく。