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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

生存圏をつくること ジンの販売が始まった

2日から14日まで、ジン(出版社を通さない自作の本や冊子)を販売する三条富野小路書店の催しが始まった。

 

http://instagram.com/p/wLM-mcJW0m/

 

 

知っている人が結構出品している。初日の4時前ごろに会場に行くと詩人の豊原エスさんがいた。「出されているんですか」と声をかけると「あ、米田くんや」と。エスさんは、7、8点出品されていた。「歌いながら生きていく」が一番好きな作品だけれど在庫無し。店には「うた」「ホイッスル」などの初期の作品も置かれている。初期は生々しさがいいなと思う。



エスさんは、これからすぐ仕事に行くらしく、僕のジンはどこかと訊かれたけれど、まだ場所を見つけてなかった。また何度か来るらしいので、それまでに探しておきますとお伝えする。エスさんは、京都自由学校というボランティアで運営する市民学校で、詩をつくるワークショップのファシリテーターをしている。エスさんのファシリの力、人を育てる力は並々ならぬと思う。毎年ワークショップに集まった人たちはいい仲間になっていく。ワークショップも今年は10年目とのこと。

 

エスさんのBlogはこちら。セルフヘルプ、いい名前。

 

 


はてなブログを通して知った小出マワルさんも出品されている。しかし、面識がないのでもし会場であってもわからないという・・。




エスさんが帰って、自分のを探す。部屋の中央の台のいい場所にあった。こんなところ置いてもらえるのかとちょっと驚いた。出品されたジンはそれぞれ絶妙に配置されていて、妖怪ものとかは、わざとちょっと隠れたところにあったりする。僕のが真ん中にあったのは、地味なためだろうなと思った。各作品ごとにベストなポジションに置いてくれているのだ。愛があるなと思った。

 

僕は作るとき、デザインを気を配ることなく、中身だけ書いたらあとは低きに低きに流れるので「売る気ないでしょ!」と一緒のタイミングでつくっている人に怒られた。タイトルもひねりなし。ほぼブログの副題と同じで「生き残り 回復していくために」とした。

 

http://instagram.com/p/wLMrQ3JWzx/

 

 

結局同じことしか考えないから、昔から言ってることの方向性はずっと同じ。ただ全体をまとめるということをしてなかったから、今回はいい機会だった。また生きていくためには潜在的な仲間に出会っていく必要がある。この世界に自前の生存圏をつくる必要がある。

 

このブログでもフェイスブックその他でも、考えていることは提示してきた。しかし、割に近い人でも、全部見てくれるわけじゃないので、やっぱり概観できるようなものはいる。

 

また自分で考えていることも、咀嚼しないと理解が進まないし、人に伝えられるものにならない。考えは、ちょっとずつ違った角度や違った場面で何度も書いたり、繰り返し言葉にすることで、咀嚼され練られていく。

 

宮崎駿さんは、物語をつくるとき、最初からこう始まってこう終わるみたいな枠組みをつくるのではなく、物語の途中のある一点から始め、それを広げていく手法をとっているという。僕もそういうほうが馴染む。一点を明確にしてそれを周りに広げていく。その結果、全体像が徐々にあらわれてくる。あらわれてくるまで自分でもわかっていない。大学時代、ある友人が僕を「一人でナスカの地上絵描いてる人のイメージやねん」と言ってくれたが、それ以上突っ込んで訊かずいいように解釈することにした。



ジンの内容をざっくりいうと・・・

 

身体的にだけでなく、精神的にも生きていくためには、環境に働きかけ、環境を調整したり、つくっていくことが必要。生きづらさ、自分の底にある苦しみは、困難をもたらすものでありながら同時に喜びを創造し、環境に働きかけていくときの原動力になる。底にある苦しみを利用し、生きていく力にする。マイノリティが生き残りのために行う創造は世界にそれまでなかった公共性をつくりだす。弱く些細な存在である人間にとって、世界は不条理で荒野。強いものが弱いものをどこまでも抑圧する自然状態、全てを均一化させていこうとする自然の圧力に抗して生きている。生きていることは、それ自体の性質として本来的に反逆だと考えられる。不条理で何も保証されていない世界のなかで、意味をつくるのが文化。生きものはゲリラとして存在している。意味のない世界のうえに、間隙を縫い、自分たちが生き残る文化をつくっていく。


・・・といったところ。

人が生きるとは、2つある。1つは物理的な体が生きること。もう1つは、心が生きること。僕が考えてきたのは後者だ。


獅子が子どもを千尋の谷に突き落とすという表現があるけれども、生まれてくることはそういうことだと思う。自分のからだを含め、全てが他者。生命の、他者のルールを受け入れないと生きていけない。わけわからなくても苦しみがやってくる。谷から突き落とされたのではじめから満身創痍。それが心のスタートなのだと思う。

 

性格は激流のなかでつくられるともいう。何であれ、生き残りのための外枠が無理やりにでもつくられる。外枠は環境によって作られるのだが、生きものの体、遺伝子にとって、長い間生きるということは二の次、三の次のことなのだ。長い期間には対応してない。生きものはにわかの体制しか持っていない。

 

幼い頃の虐待によって多重人格になる人がいる。身体としては、虐待という状況があっても生きれるように、そういう乖離をおこすわけだ。しかし、その乖離は根本的な問題解決ではなく、総合的に見た場合、生きる力、創造していく力を奪っている。

 

ほっておいてもそういう状態は治りにくい。特別な状況設定、アプローチがいる。ほっておいてもそれは用意されない。生きるとは、動的だが平衡状態を維持することであり、変わることであるよりも同じ状態を維持することだ。生きものの身体は、基本的に保守的なものであり、余計な危機を避け、同じ状態、体制が維持されるようにできている。

 

生きものの体にとっては、将来も生きているなんていう想定は、完全なフィクションであり、今しかない。そして、今危機に陥るわけにはいかない。自分の状態を変えるというのは危機を経ないと遂行できない。そんな矛盾を内包しながら、なお変える。なおアプローチする。この無理やりが文化だ。

生自体は無意味。自然というのは、生きものを生み捨てている。生きものは愛されるためや幸せになるために生まれてきたのではなくて、そこにあった可能性が発現する状況になったから発現しただけ。目的などどこにもない。

 

耐えきれないその不条理さへの反逆が文化なのだ。根底的なところで、文化はいつも敗れる側にあるし、無理やりのなかにある。かといって、文化を捨て、自然の不条理さにそのまま晒されたところで惨めなだけ。文化というのは、「じゃなかしゃば」であり、憂き世、不条理なこの世でないような場所を、自分たちの間でささやかに現出させようという営みなのだと思う。

そこに立ち戻れば、文化の本来的な指向と違うものが見えてくるだろう。強いものがより強くなるために作られた構造、強いものにとって都合のいいように導かれる価値。利用できる生に点数がつけられ、点数の低いものを蔑むこと。心は、文化的構造物だ。だからほっとかれても荒れる。本来的な指向が無視されても荒れる。


「じゃなかしゃば」とは、文化的な浄土の世界、死の世界とも言える。そこで人は危機を受け入れることができる。つまり変化にひらかれることができる。ほっておけば、その場その場で生きることしか前提していない体の体制を別な体制に移行させることができる。


心は、常に意思をもってケアしなければならない。心に対して責任をもつことによって、生きる意味がつくられる。それは心の生き残りとも言えるだろう。