降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

意図するコミュニケーション 意図しないコミュニケーション

6年ぐらい前だろうか、重度身体障害者の介助をバイトとしてやっていた。

緊張したし、疲れた。あわないと思い、今のグループホーム業務に変えた。グループホームは、ほぼ家事援助なので、配食をあたためなおし、掃除をして、薬の管理をするなどで、介助ほど対象者と密着したやりとりをしなくていい。


介助はもうしんどいからやめた、と友人に言ったとき、「コミュニケーションが嫌いなの?」みたいな感じで反応をもらった。ざっくりした言い方だなあ、全てのことはコミュニケーションなんだから、コミュニケーションが嫌いとか言われたら身も蓋もないなと思ったが、一般的な用法なのだろう。

 

いわゆる「コミュニケーション力」というものは人より全然ない。それは認めるけれど、コミュニケーションというものは、人が意図しようがしまいがあるもの。意図してうまくやることだけをコミュニケーションというと、かえってぎこちなくなってしまう。「コミュニケーション力」とかいう言葉を使うことが、それを聞いた人全体のコミュニケーションを実質下げると思う。

 

既にコミュニケーションがあるというのは、たとえば猫アレルギーの人が、友達の部屋に入って猫をまだみてないけれどアレルギー反応がおこるというようなこと。意識していなくても、身体と環境のやりとりは既に行われている。コミュニケーションは既にある。そこに立って考えると、ひらかれてくるものがある。

 

 

このツイートは、野口裕之さんの言葉を紹介したものだが、意図することの弊害が明確に語られていると思われる。武術家というのは、ある領域におけるコミュニケーションの現実を追究している人たちだけれど、予測するという構えがそこでの瞬時の自由さを阻害する。意図が状況に余計な干渉をいれる。既にある自然なコミュニケーション状態を邪魔せずにいられれば、それが最適な結果を導く。

 

何かが起こるということは、人間の意識では把握できないほどの膨大なコミュニケーションがそこでおこっているということ。それはそれ自体のダイナミズムによって、全く完全に調整されているのだけれど、いらない干渉が邪魔をする。そこで起こっていることなどわかるはずがないというのが、まず余計な干渉をしないための妥当な距離。過ぎたるは及ばざるよりもっと悪し。

 

よって、いかに「コミュニケーション」するかではなく、そこに潜在するもの、見えないがおこっているコミュニケーションをいかに邪魔しないか、あるいはその可能性を引き出すか、というのが生産的な結果を導くための問いであると思う。だから意図するコミュニケーションがコミュニケーションと呼ばれるものの全てだと考えてしまうのは、とても弊害が大きいと思う。

既に前提になっているもので障害になっているものをとりのぞき、ニュートラルになっていくと踏まえるほうが、健康的で実質生産的ではないかと思う。

 

コミュニケーションは既にある。だからそれを引き出すのだと考えると自由になるし、耳を澄ます状態になる。逆に意図すればするほど、緊張し固まっていく。ある程度やってできないことは、それ以上しなくていいと思う。それはそれで置いといて、別の方向を探っているうちにできるようになるかもしれない。とにかく意識しすぎはいいところがない。