降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

超贋作サロメを観に行った 呼びかけ 祈り ちいさな演劇

劇団衛星さんの超贋作サロメを観に行った。本来なら21日に観に行くはずだったけれど、いつの間にか思い違いをして明日行くと思い込んでしまっていて今日気づいた。明日の公演はオイディプス王のみなので2本観るなら今日いかねばならなかった。青いバットをもって頭に茶色いのをまいたファックジャパンさんが立っているだけで面白かった。


劇団衛星 20周年記念公演① 『超贋作 サロメ/オイディプス王 〜冒涜版〜』



KAIKAという四条のスペースが会場なのだけれど、ここに行ったときは、時々歩いて家まで帰る。演劇とかみて、体に何かおこっているときは、いきなり日常のモードに戻るのはもったいない気がする。歩くのがそれをおさめるのにちょうどいい。

 

村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で、夢読みが骸骨の夢をとってあげる。いい加減な記憶だけど、夢読みが骸骨を手に持つと、それが熱をおびていきそして反応が終わって冷める。こんなふうに歩くことは、そんな弔いのようなものだと思う。

 

サロメは、20年前に京都で初めて公演したものとからしい。独特の間だった。なかなか首を切らない。物語を展開させるのではなく、とどめる感じ。こまごまとした感じの笑いのシーンにいれる。公演の全体から自分が感じていたものは迷い、だったかな。2時間近く歩いてもう家に着くちょっと前にそう思った。

 

歩いているとき、祈り、呼びかけについて、意識が向く。
ネットのマンガで、虫籠のカガステルという作品がある。人間が人を喰う虫になってしまうという設定。誰が虫になるのか、いつ虫になるのかは誰にもわからない。一旦虫化が始まれば、15分で人は理性を失った虫になってしまう。長いけれど、圧巻のクオリティだと思う。

チキンの魂/虫籠のカガステル

 

ヒロインが意識のない母に出会う。母は人に利用され、意識のないまま人工的に生かされている。ヒロインは母親のその終わりのない束縛を救いにいっている。しかしそれは、母親の生命を断つことを意味する。ヒロインは、母と別れてからおこったことを報告する。

 

「あのね、グリフィスと一緒に本物の羊飼いになったのよ!」
「マリオさんの店でウエイトレスにもなったんだ。美味しいお茶の淹れ方も教わったんだ!」
「友達もできたんだよ。私とずっと友達でいてくれるんだって。」

「ごめんね、ずっと忘れてて。でももうどこにもいかないから。」

 

そしてヒロインは母親の体を解き放つ。

呼びかけのなかで何がおこっているのか。
呼びかけは、自分の心の奥底で、かたまっている記憶へのアクセスだと思う。ゲシュタルト・セラピーでは、ホットシートと呼ばれる技法があり、そこに存在しない人にある席をあげて、その存在しない人と語るというものがある。死んだ人、もう会えない人は、脳の中に、記憶の中にある。

 

しかし、それが心のなかにおさまりきらず、うめき声をあげている。あるいは悲しみを伝染させてくる。そういう場合がある。その時には、呼びかけの設定をつくることによって、その記憶の苦しみを弔うことができるのだと思う。

 

水子供養をする母親の水子イメージは、当初は苦しみと無念さを訴えるものだが、弔いを重ねるうちに母親を応援するものへと変化するという。供養は、呼びかけ、語りあうことなのだ。

 

演劇、状況設定は、そういう呼びかけを可能にするだろう。古い苦しみを弔うことができるだろう。

 

小さな演劇をつくりたいと思った。4、5人でやって、脚本もそれぞれでつくる。全部に時間をかけて味わいながら。プレイバックシアター的に。自分がつくった脚本を自分以外の人がやる。その後、自分がやりたくなったらやってもいいかもしれない。