降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「ネガティブ」にせまる

出会った現実に対する喜びは、要求水準の低さとおこった現実の高さとのギャップによって生まれる。

 

四国八十八カ所めぐりにおいて、バスでまわる人と徒歩でまわる人とで、面白い意識の違いがある。アンケート調査では、バスでまわる人たちは寺のトイレが汚いことに不満が多い。一方、徒歩遍路の意識ではそこは問題にされていない。それはそうだろう。途中には寺のものなど問題でないものがいっぱいある。寺はなんだかんだとちゃんと掃除している。徒歩だと、必要なときにトイレがあるだけでも助かったと思う。

 

野宿していると、四方に壁があるだけ、屋根があるだけで、よかったと思う。人に助けてもらうことがしみるぐらい嬉しくなる。一方、地域で普段の生活をしている人は、自分がちょっとしたことで徒歩遍路がそんなに喜ぶことに驚く。また普段は車で行くようなところに遍路が何時間もかけていくことに驚く。徒歩遍路も自分の家ではそんなことしないが、遍路中はそれが当たり前だ。当たり前の水準が違うことで、遍路者と地元の人には好循環が生まれる。

おこったことが同じでも、それに喜ぶか、不当に思うかは、現実に対する要求水準の違いによる。今の社会では、要求水準が高めに設定されている。高めの水準で満たされないと不幸なのだ。基準が高めに設定されているので、本来はニュートラルなものはネガティブになってしまう。

現実というのは、身も蓋もないもの。僕はそれがニュートラルだと思う。それを認めたくないのは、今が既に苦しいからだと思う。より大きな快でその苦しさを麻痺させるのではなく、そのいたたまれない苦しさ、緊張感を取り除いてあげる。すると以前よりすっきりする。得るものというのは、言ってみればその程度だと思う。掃除できてすっきりしたというぐらい。

 

それ以上の幸せがあると提示して、狂わせるのが社会のやり方だと思う。


あるアメリカのコメディアンがこう言った。

Life is too serious to be serious.(生きることは、深刻になるには深刻すぎるわね)

 

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笑えるほど、身も蓋もない。苦しむ人に言いたい。これがニュートラル。これが適正距離なのだと。これで身軽さが戻る。そのフットワークを取り戻すと、耐える力も増える。「人生」というフィクションを生きる余力が生まれると思う。

 

「ネガティブ」にせまったほうが、物事ははっきりすると思う。やりたいことは何かと言われれば人は迷う。選択肢が多すぎるから。ではこうするとどうだろう。

 

自分は今何かを得るために、あるいは何かを避けるために時間を費やしている。しかし、それが全て裏目に出て、最低最悪の死に方をする。その可能性は現実にいつだってある。そのやってられなさをありありとイメージし、その時に後悔することをやる。それがいわゆる「やりたいこと」だ。違うだろうか?

 

自分の行動が自然と次の次元に展開するときというのは、ばかばかしさ、やってられなさの感覚がおこるときではないだろうか。見合わない。割にあわない。それがニュートラルな感覚に戻るときなのだと思う。