降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

小山田さんの言葉をうけて

小山田徹さん「大きな言葉での議論は大きな物語に取り込まれてしまうので、私たち自身の生活改善にフルスイングで取り組み、実践し、共有することをはじめなければならない。アートはその為の思考のツールの有効な一つであるだろう。過去の歴史から未来までを貫く視座を獲得することには想像、創造が不可欠です。個々人か勝手に様々な試みをする事、勝手に様々な愛の営みを行う事を国家は最も嫌い、恐れます。小さき事を確実に始めることが必要だと思います。」
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大きな物語というのは、みんなで演じているフィクションだと思う。取り決め、設定を敷くとそこにリアリティが生まれる。強い力をどこかに(自分たちに)集中させるために敷かれた便宜的リアリティを唯一本当のものだと思わせられるのか、それともそこから脱していくのか。

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社会の全てが変わらなければ意味がないのではないと思う。それぞれの場所でそれぞれが自分たちのために変わるだけで十分なのだと。そのつなぎあわせ、パッチワークこそが、社会の土台からの変化をもたらす。それが次世代の公共性の基盤だろう。

大きなかたまりは幻想。その幻想を前提とする「ソーシャル」なんたらに騙されてはいけない。等身大の、生きものとして直覚できる範囲、その層を自分たちに取り戻すことで、共に生きて世界を創造していく力が社会ではなく自分たちに戻ってくる。考える力、自分たちで責任をもって生きる力が戻ってくる。

 

社会に属しながら、暴走する社会に与しない。そのために必要なのは、複層だと思う。大きな物語を1つの層として受け取りながら、等身大の自分たちが創造する、もう一つの生存圏を重ねる。もう一つの層をつくれるとき、初めて暴走を止める健康性が生まれる。この層をつくっていく。これはもう一つの現実をつくっていくことでもある。演劇的反逆だ。

 

それは微生物的な活動にもたとえられる。健康な土壌、つまり微生物体系は、全体として病気を避ける抵抗力をもっている。微生物は一律に誰かの命令に従っているわけではない。それぞれで独立して生きる力があり、生きている。その上ではじめて、全体としての健康性が維持される。全体とは、派生するもの、副次的に生まれるものだと思う。

 

微生物それぞれが自分が生き残るために行う創造、それが愛の行為ではないかと思う。それはギブアンドテイクではない、周りへの贈り物となるから。



小山田徹『対話をし続けること 共有空間の獲得』(1/3) | 生きることが光になる