ドラゴンボールの人造人間17号は少なくともマンガのほうでは、ほぼストーリーを展開する都合上存在していて、それ以上のことは描かれていない。姉の18号(ジョディ・フォスターがモデルとのこと)がクリリンと結婚したり、その後の天下一武道会に登場したりするが、17号はその後ほとんど出てこない。
主役級と新しい敵が急速に強くなるドラゴンボールでは、ひとときは強くても少しストーリーが進めば、ヤムチャや天津飯もそうだったように、ほとんどキャラの使い用がなくなってしまうのだ。
17号は、永久エネルギー炉を内蔵しているので、エネルギーを補給しなくていい。登場時点では世界最強でそのことは自分も認識している。ドクターゲロに勝手に人造人間にされた恨みを晴らした後はやることがない。孫悟空という17号以外では最強と思われるものを倒しにいくが、飛んでいけばすぐなのに、「楽しむため」とわざと車で移動して向かおうとする。
17号ほど空虚な存在はない。好戦的な態度は実は意識下での死への憧れ、この苦しみを終わらせることへの切迫ではないかとすら思える。不本意に人造人間化され、もうもとに戻れない。永久機関なので死なない。既に最強の存在でどこも目指すところがない。孫悟空より自分が強いのはわかっているけれども、それでも自分以外の最強と闘うという仮定をつくって、そこまで旅をするという設定で道中に意味をつくりだす。時間に意味をつくりだす。
目的のために道中があるというのが、普通の解釈だけれど、道中をつくるために目的があると逆転させることもできる。この逆転は自給的な方向性へむかう考え方と近しい。
欠落を埋めるために旅に出るが、欠落こそが生、豊かさ、生きる意味をつくっていた事を主人公が知るシルヴァスタインの絵本「ぼくを探しに」では、まさにこの逆転が物語のテーマとなっている。
- 作者: シェル・シルヴァスタイン,Shel Silverstein,倉橋由美子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1979/04/12
- メディア: 単行本
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自給という考え方は、生活をより自分でつくり出す方向に向かうということだと思う。それをなぜ僕がやっているかという理由を説明するとき、僕は生活保護の話しを例にだす。生活保護を窓口で断られ、もらえずに餓死した方の話し。社会にシステムがあるけれども、それは必ずしも自分が陥った状況を救わない。社会を変えるアプローチをすることが必要だろう。一方でそれだけで十分だろうか。そう思えない。社会へのアプローチをしながら、同時に自分の身の回りに自分が生きられる環境や関係性を直接につくりだすことが必要だと思う。
しかし、自給的な生き方をすることにリスクはないのか、というとハイリスクだ。お金がないし、保証がない。何か能力があればお金も保証も得れるかもしれないけれど、少なくとも自分はそうではない。でも、社会の主流のほうに生き方をゆだねたからといって完全な保証があるわけではない。国が年金を高率の株式に運用しだしたり、リーマンショックのような外国の金融危機がそのまま影響をおよぼしてくる。
自分が将来困窮して生活保護を受けにいって断られ餓死するのかもしれないし、その他惨めな死に方をするかもしれないけれど、最終的な死に方というものは結局のところ自分で選べない。自給であれ、社会の主流的であれ、どのような生き方をしても、どんなに狙ってもそうはいかない可能性がある。結局、もっとも惨めで苦痛な死に方になることを自分の力で避けることはできない。
だから自給的な生き方へ行く。社会にあるシステムに完全依存せず、それがだめになっても自分が生きられる環境をつくる、という方向性に保証があるから行くのではなくて、いい道中になると思うからいく。目的は道中をつくるためにある。
この方向性で進んでいくときに育てられる人との関係性があり、出会いがある。命がかかっているから、実際の周りの人たちと本気で関係と環境をつくらないとやっていけない。しかしこの危機と危機感こそが他者と関わり、出会いをつくる力。世界に出ていく必然性なのだ。失敗して惨めに死ぬかもしれないけれど、成功したって死の瞬間は最悪に惨めに死ぬかもしれないのだったなら、自分はこちらに賭ける。というか、実質、こう生きるしかできないわけで選んでいるのでもない。
もしかしたら明日事故で死ぬかもしれない。でも、別に将来の達成が最終目的ではないからそこに過剰な悔いはない。道中をつくるために、道中の必然をつくるために将来や目的は設定されただけだ。
しかし振り返れば、実際はみながそう生きていないだろうか? 未来のために、将来の子どもたちのために、と言うけれど、世界の大部分は持続可能な方向に動いていない。今のために生きている。将来を想像し、今高揚するために。あるいは今の自己拡張のために。国の目標とか、経済の成長とか、人類が宇宙に行くとか、そういうものは、力を持ったものが自分により都合のいい環境づくりをするためのお題目として使われているのが実のところではないだろうか。
自給的方向性は、大きなシステムから無関係になることではない。大きなシステムがつくる世界、お金と力が全ての世界と、もう一つ実質の自分たちの手づくりの継ぎ接ぎの環境を併存させること。あるいはさせようとすることだ。どちらの世界にせよ、完全な保証はない。ただ、道中のつくりかたの話しをしている。生きている時間の、意味のつくりかたの話しを。